招き猫の赤いリボンが、なぜ赤いのか——答えを知っている人はほとんどいない。それが源氏物語にまで遡る話だと聞けば、驚くかもしれない。しかし、美術史家の大久保範子氏(以下、大久保氏)が語るには、それは偶然などではなく、千年以上にわたる文化の「連続性」の産物だという。
大久保氏は、岡山大学社会文化科学研究科の准教授として、相撲絵を中心とした浮世絵・江戸の縁起物を専門に研究してきた。
研究の始まりは、「楽しそうな先生」に惹かれて入った研究室がたまたま日本美術を専門としていたことだと言う。そして、日本美術の研究を進めていたある日、相撲を見に国技館を訪れた際に出会った相撲絵が、研究テーマとして未開拓である点に着目し、相撲絵に研究テーマを絞ることにした。
「庶民信仰と浮世絵——力士の表象を中心として」という研究課題名が示すように、その関心は美術作品にとどまらず、絵の向こう側にいた庶民の信仰や感覚にまで深く向かっている。
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第1章:浮世絵はマスメディアだった——江戸が生み出した「庶民文化の爆発」

大久保氏が研究対象とする相撲絵は、浮世絵というジャンルに位置付けされる。相撲絵も役者絵や美人画と同じように、力士の似顔を描いて売ったいわゆるブロマイドの一種だ。
昔は写真などはなく、誰もが知っている人気力士の姿を絵で手元に置くという需要が、浮世絵の市場を育てていった。
しかし、浮世絵の意義は、ブロマイドを超える。大久保氏はこう断言する。
浮世絵は(現代のTVと同じような)マスメディアですよ。大量生産・大量消費のビジュアル文化という意味で、江戸時代の浮世絵がまさにそれでした。

それまでの絵画は、貴族などの特別階級が絵師に一点ものとして特注するものだった。そのため、絵を所有できるのは、ごく限られた上流の人間だけだ。
ところが木版印刷の技術によって、安価に大量生産することが可能になり、それまで「自分が絵を持つ」など夢にも思わなかった庶民が、手の届く価格で絵を買えるようになった。
ここで重要なのは、なぜ江戸の庶民に絵を買う余裕が生まれたのかという背景だ。
江戸以前、庶民の生活は朝から晩まで働いてようやく一日を生き延びるのが精一杯だった。それが、戦乱がない長期の安定・政治の安定によって余暇の時間が生まれ、経済的な余裕もできた。
庶民が教育を受けられるようになり、識字率も上がり、読書を趣味として楽しむ層が、庶民にまで広がった——これは世界史的に見ても際立って早い変化だ、と大久保氏は言う。
イギリスなどでは、庶民にまで教育は進んでないですよ。特権階級が下の階級を支配するためには、教育を積極的に授ける必要はないと思っているので。知らないほうが支配しやすいから。

日本では早くから識字率が高い庶民が存在した。しかし、識字率が向上したとはいえ、当時の人々のあいだには読み書き能力に幅があった。
スラスラと読める人もいれば、一文字一文字確認するようにしか読めない人もいる。そういった人々にとって、(文字説明の補助として)絵はきわめて重要な情報メディアだった。
挿絵ってすごく重要じゃないですか。何が書かれているのかが(文字の理解が浅くても)絵によって理解できる。なので、絵入りの本の方が売れたらしいんです。
絵入りの出版物が売れると気づいた版元側は、絵をどんどん増やした。絵がたくさん入った本が売れる。
そのうちに「絵の部分だけを一枚ものとして欲しい」という需要が生まれた。それが浮世絵の展開につながった、と大久保氏は語る。
庶民が文化を「受け取る側」だけでなく文化を「作り出す側」になった。この転換こそが江戸の本質だ。
それまで文化は特権階級の人が(余暇を楽しむために)作るものだったんです。江戸になって初めて、庶民が主人公として文化を作り出す側になった。世界的に見てもそれはやっぱり珍しい。
第2章:「グルメ」「旅行」「健康法」——浮世絵が記録した江戸の日常とは

「江戸ってすごいんですよ。まだまだ掘れますよ。」大久保氏が笑いながらそう言ったのは、江戸の日常文化を語り始めたときのことだった。
浮世絵が描いたのは、役者や力士だけではない。食、旅、遊び、そして健康法まで——庶民の日常がビジュアルとして記録されている。現代のグルメ文化の根っこも、実は江戸にある。
まず食文化の発展には、五街道と海上交通の整備が大きな役割を果たした。幕府による主要な道路や航路(日本海側、太平洋側)の整備によって、日本全国のものが江戸に集まるようになった。
各地の名物が一箇所に届く。お寿司も天ぷらも蕎麦も鰻も——今の私たちが「江戸前」と呼ぶ食文化の多くが、この時代に庶民の間で育まれた。浮世絵に描かれた寿司は今のものよりずっと大きく、1個がかなりの存在感を持っていたらしい。
鰻は江戸が切腹を嫌ったことから背開きが主流になった。豆腐も大きい。「全部でかい」という大久保氏の言葉が印象的だった。
旅行ブームも江戸時代後半に起きた。しかし当時の旅行は現代のものとは少し違う。
各藩ごとに関所があり、隣の藩に行くには正当な理由が必要だった。そこで機能したのが「お伊勢参り」という名目だ。信心深さを理由にすれば関所を通れた。
集落ごとに一種のグループ貯金のような積み立てをつくり、順番でお伊勢参りの代表を送り出した。
その集落を代表して行った人は、宿場町を巡りながらそこのグルメを食べ、お伊勢参拝をし、土産を買って村に帰る。そうやって日本の各地の文化が色々知られるようになっていったんです。

各地域ごとの名物料理・郷土料理が発展した背景にも、この五街道の整備とお伊勢参りブームがある。
コレクター心理と旅行文化が合わさった御朱印集めのような文化も、江戸の旅行ブームの変奏として見ることができる。
健康法もユニークだ。江戸の人々はどうやって病気と向き合っていたのか。大久保氏が例として語ってくれたのが、葛飾北斎の話だ。
北斎は中風(脳梗塞)を患ったことがある。半身が動かなくなった浮世絵師も多いなか、北斎は後遺症なく回復した。その後も「神奈川沖浪裏」(代表作『富嶽三十六景』の一図)を描いた。その回復を、北斎は自作の薬のレシピのおかげだと自ら言っており、そのレシピが今も残っている。柚子と日本酒を煮たもの、薬用養命酒——漢方的な考え方に基づいた自家製処方だ。
科学とかなかったので、漢方みたいな考え方があって。この食べ物が何々に効くみたいな考え方が当時はあった。
さらに興味深いのは「はしか絵」だ。疱瘡(天然痘)や麻疹(はしか)が流行するたびに描かれた浮世絵で、食べていいものとダメなもの、おまじないの方法、流行の周期(「だいたい20年おきに来るから気をつけなさい」という経験則)まで書き込まれている。
消化に良さそうなものは推奨され、魚類(特に生食)や食物繊維の多い野菜、油っこいものなどは「体を冷やす、消化が難しい」という理由で敬遠された。科学的根拠はないが、現代の知識で見ても理にかなっている部分もかなり多い。
だいたい食べていいものはちょっと消化が良さそうなものですね。確かに今でもなんか、そういう感じですよね。
おまじないも縁起物も、漢方の知恵も——江戸の人々が見えないものに対抗するために持ちえたすべての武器が、浮世絵というメディアに詰め込まれて庶民の間に広まった。
記録でも、教育でも、慰めでもある——そういう多機能なメディアとして浮世絵は機能していた。
第3章:相撲は江戸の三大娯楽——幕府が禁じなかった唯一の庶民文化

江戸の庶民の娯楽は何だったのか。大久保氏は三つを挙げた。歌舞伎、吉原などの遊郭、そして相撲だ。
しかしこの三つは、幕府から等しく歓迎されていたわけではない。
歌舞伎は「かぶき者(傾奇者)」と呼ばれる今でいうチンピラに近い人々が行っていた大衆演劇を起源としている。今の歌舞伎は教養ある人が着物を着て観に行く「ハイカルチャー」として認知されているが、当時はむしろ柄の悪いものとしてスタートしていた。
そのため、幕府はしばしば歌舞伎を弾圧し、風紀を乱すとして役者絵や美人画の出版を禁じた。吉原も表立っては推奨しにくい。
ところが相撲だけは、弾圧されなかった。
理由は、力士の社会的地位にある。強い力士たちは各藩の藩主に雇用されており、身分としては武士だった。武家社会の江戸において、武士が行う相撲を幕府は禁じようがなかった。
むしろ景気が悪いときほど役者絵の出版が禁じられる分、相撲絵が大量に作られた。
国が一定の範囲で推奨する文化でもあった。
武家社会と非常に親和性が高いのは体を鍛えるお相撲さんです。しかもお相撲さんは武士ですから、強い力士は各藩の藩主が抱えているんですよ。藩主お抱えの力士なんです。
相撲の起源は古い。古事記にも記述があり、もともとは宮中で行われる儀式の一部として東西の力士が相撲をとっていた。その後、侍の時代になると体を鍛えるトレーニングとして相撲が行われるようになり、やがて仕える主を持てないあぶれた侍たちが自主的に相撲団体を組織して興業するようになった。
それが今の相撲の直接的な源流だ。
道具もいらない。どこでも誰でもできる。
全国の神社や仏閣で「村相撲」が行われ、国民的なスポーツとして広まっていった。
江戸の娯楽スポーツとしては相撲一強ですよ。だって庶民の娯楽と言ったら、当時は歌舞伎、吉原、あと相撲。揺るぎない三大娯楽なんですけど、そのなかで唯一、全ての身分の人たちが表だって楽しんでいると公言しやすかったんです。
そして相撲絵は、この文化的背景の上に立つ浮世絵として機能した。スポーツ選手のブロマイドを買い集める現代のファン心理と、本質的に変わらない需要が、江戸の庶民のあいだに存在していた。
第4章:力士の手形はなぜ縁起物になったのか——相撲と庶民信仰の深層

飲食店に飾られた力士の手形を見たことがある人は多い。しかしなぜ「手形」なのかを考えたことがある人は少ないだろう。大久保氏はまさにその謎を、現在進行形の研究テーマとして追っている。
手形って要は商売繁盛であったり、疫病除けであったり、そういう護符というか、おまじない、お守りとして今も流通していますよね。
いつから、なぜ手形が縁起物になったのか。確定的な資料はなく、自然発生的に手形は縁起物として流通するようになったらしい——というのが、資料をたどっていくと見えてくる経過だという。
発端は「巨人力士」への博物学的な興味だった。
「尋常じゃない大きさの人間の手形はさぞかし大きかろう、ということで、それを記録に残したい」という動機が、手形を紙に押すという行為を生んだ。
最初は巨人力士の手形だけが記録された。それが時代を下るにつれて、巨人かつ非常に強い横綱クラスの力士の手形も押されるようになっていく。
面白いのは「体が小さくて強い力士の手形は残っていない」という点だ。あくまでも「大きい」ことが重要だった。
やがて、横綱などの手形に「この手形が邪気を払う」「豊作をもたらす」という添え書きが加わった手形が出てくる。このあたりから手形が縁起物・疫病除けとして機能するようになっていく。
なぜ力士の生身の写しに霊力が宿ると、人々は信じたのか。大久保氏はここで、相撲という文化全体に備わった「神性」を指摘する。
お相撲さん自体が、縁起の良い存在として、神様と人間をつなぐ存在として、江戸文化のなかでみなされるようになったらしい。
横綱の土俵入りで足を大きく開けて踏みしめるのは、地面に眠っている悪霊を払うための行為だ。邪気を払う特別な力を帯びた存在——それが力士なのだ。普通の人間でありながら、完全に私たちと同じ存在とは言えない。神様の力を帯びている。
力士の四股名にも、その世界観が反映されている。
お相撲さんの四股名ってその出身地の山であったり、川であったりというのが多いですよね。それってやっぱり自然信仰ですよ。その力士の出身地の大きな山や川の神様が、その力士を通して地元の力を与えているという考え方があるんですよね。

何とか山、何とか富士——今も残る四股名の命名は、単なる習慣ではなく、日本のアニミズム的な自然信仰と深く結びついている。大きいものには神様が宿る。
富士山が信仰対象なのも、御神木が神聖とされるのも、その延長線上にある。相撲界の2メートルを超える体躯の力士は、まさにその「大きなものへの畏敬」を体現した存在として、縁起物の論理と重なり合っていた。
第5章:赤は縁起の色だった——江戸の縁起物に通底する「赤」の秘密

招き猫の話に入る前に、もう一つの文脈を押さえておきたい。
なぜ赤が縁起の良い色とされたのか、という問いだ。
大久保氏が日々手元に持っているのは、耳が長い赤いミミズクの人形だ。江戸時代の浮世絵にも、ほぼ同じ形の赤いミミズクが縁起物として描かれている。これは「疱瘡除け」の縁起物だという。
疱瘡(天然痘)は江戸時代に繰り返し流行した恐ろしい病だ。当時の民間信仰では、疱瘡を広める「疱瘡神」が赤色を苦手としているという伝承があった。
だから子ども向けのおもちゃや縁起物に赤いものが多い。だるまも赤い。
江戸時代から伝わっている小物や子供向けおもちゃは赤がすごく多いです。あとは浮世絵でも『赤絵』というのがあって赤一色で刷られているものもある。
はしか絵には「この絵が邪気を吸い取ってくれる」という信仰があり、貼られた絵は病が治ったあと焼いたり水に流したりして処分された。消耗品として使われたために、もともと紙の質が悪いものが多いという。
さらに大久保氏は赤いミミズクについて、もう一層の意味を語ってくれた。
疱瘡の後遺症で難聴になることが多かったため、「耳がよく聞こえたままでいられるように」という願いを込めて、耳が強調されたデザインになっている。
ミミズクはもともと暗闇でもよく見えることで知られるため「先を見通す縁起物」としても好まれた。ウサギの人形も江戸の縁起物に多いが、赤い目と長い耳がやはり疱瘡除けのアイテムとして機能していた。
赤色で耳が強調されていて。まさにそうじゃないですか。そういう意味でも赤って結構縁起物としては重要な色なんです。

招き猫の赤いリボンを語る前に、この「赤が縁起の色」という江戸的な感覚があったことを知っておくと、次の話がより深く響いてくる。
第6章:招き猫のリボンが赤い理由——源氏物語まで遡る文化の連続性

招き猫の赤いリボン(首輪)について、大久保氏はかねてから「個人的に面白く思っている」と語っていた。なぜ赤なのか。その問いを辿ると、平安時代まで遡ることになる。
まず猫の歴史から整理しなければならない。
日本の文化を語る上で仏教は欠かせないが、仏教の世界において猫はあまり良い動物として扱われてこなかった。お釈迦様に薬を届けるネズミを捕まえてしまうから——というのが理由だ。
仏の敵、とも言われる。一方で、中国や仏教の経典・書物を船で日本に運ぶ際、船内のネズミを駆除するために猫は乗せられてきた。ネズミから経典を守る存在でもある。
こうして猫は、対局的な立ち位置を持つ動物として日本に入ってきた。
「唐猫」(からねこ)という言葉がある。中国の宮廷で愛玩用に飼われていた猫が、日本の貴族階級に伝わり、屋敷の中で飼われるようになった。数が少なく珍しい存在だったため、貴族しか飼えなかった。しかも今のように室内で放し飼いにするのではなく、紐をつけて飼っていた。
そのリボンの色が、鎌倉時代以降に描かれた絵画では、ほぼ例外なく赤い。
ここで重要なのが源氏物語だ。光源氏の晩年に登場する女三宮という人物は、子どもっぽく幼い女性として知られており、その描写のひとつとして「猫を可愛がっている」という場面がある。
猫は唐猫で、紐をつけて飼われていた。その猫が逃げそうになった瞬間にカーテンが上がり、謹厳な当時の規範では「白昼堂々、異性に顔を見られてはいけない」はずの女三宮の顔が、柏木という青年に見られてしまう。そこから密通が生まれ、光源氏の晩年の悲劇が動き出すという源氏物語のなかでも重要な転換点に、猫が関わっているのだ。
源氏物語自体には赤い紐で猫を繋いでいるとは書いていないんです。文章中にリボンの色は書かれていない。でも鎌倉時代以降に描かれた絵ではもう赤いです。
この源氏物語の場面が繰り返し絵画化され、唐猫のドレスアップといえば赤いリボンという定型が確立されていった。江戸時代に入ると、源氏物語を題材とした絵が大量に描かれる王朝リバイバルが起き、猫に赤いリボンが描かれるという「お約束」がさらに広まった。
比較してみるとよくわかる。中国の絵画にも「猫に蝶」という画題がある(猫を意味する「貓 mao」と、70・80歳長寿を意味する「耋 dié」の発音が近いことから縁起の良い画題とされた)。
しかし中国オリジナルの猫の絵には、リボンがついていない。日本の浮世絵になると、そこに赤いリボンが加わる。歌川国芳のような猫好きで知られる絵師の作品でも、室内で飼われている猫にはほぼ赤いリボンがついている。
なので招き猫のリボンもほぼ赤色だと思うんですけど、そこに影響していると思います。源氏物語からの繋がりです。
現在私たちが見ている招き猫の赤い首輪——その造形の記憶は、江戸時代の浮世絵を経て、平安時代に中国から伝わった唐猫のドレスアップにまで遡る。
千年をこえる文化の連続性が、あの小さな赤いリボンに折り畳まれている。
第7章:研究者として、これからの展望——「浮世絵を見れば今の日本がわかる」

今後もっとも力を入れていきたい研究として、大久保氏が挙げたのは相撲絵の本だ。
「相撲絵に関する本を書きたい」という言葉に、研究者としての長年の思いがにじむ。その周辺として、「江戸時代における庶民信仰が浮世絵のなかでどのように描かれてきたのか」を体系的にまとめることも、目標として語っていた。
海外講演の経験も、その研究の射程を広げる。訪れたノースダコタ州には、日本に来たことがある、あるいはこれから行くという人々がたくさんいた。インバウンドの増加とともに、浮世絵や相撲に対する海外の関心は高まり続けている。
日本文化って海外の人から見たら、なんでっていうふうなものがかなりあると思うんですよね。でもそれにはずっと長く日本の歴史のなかで受け継がれてきた、それなりの理由であったり、意味づけがある。
今の私たちですら忘れてしまった部分が、浮世絵を見ることで浮かび上がる。
なぜ相撲の力士が縁起物的な存在なのか、なぜ招き猫のリボンが赤いのか——日常でなんとなく受け継いでいながら理由を知らなかったことの「答え合わせ」が、浮世絵というビジュアル資料を通じてできる。それを国内外に伝えていきたい、と大久保氏は語った。
ビジュアルで残された資料を通じて、自分たちの歴史であったり、末梢に根付いているものの原理を汲み取ることができるというのは特別な経験だと思います。
浮世絵は、単なる過去の美術品ではない。今の私たちが何を信じ、何を縁起が良いと感じ、何に手を合わせるのか——その感覚の「理由」を教えてくれる、もっとも現代と身近な歴史の1つなのかもしれない。