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インタビュー

赤べこが「柳津の牛」になったのは昭和30年代――目黒公司が史料でたどる、赤べこと撫牛の由来

赤い体に、ゆらゆらと揺れる首。福島県会津地方の郷土玩具「赤べこ」は、平成9年(1997年)に福島県の伝統的工芸品にも指定され、縁起物や会津のお土産品として今も多くの人に親しまれている。

その由来として、必ずといっていいほど紹介される話がある。会津の柳津町にある圓藏寺で虚空藏堂を建てるとき、材木運びを手伝った赤い牛がいた――。観光パンフレットにも、郷土玩具を紹介する本にも、ほぼ例外なくこの話が載っている。

ところが、この由来が赤べこと結びついたのは、昭和30年代半ばのことだという。

招き猫にも、豪徳寺の猫や今戸の老婆の話など、いくつもの由来の伝説がある。縁起物の由来は、いつ、どこから語られるようになったのか。それを確かめる見方は、招き猫を知るうえでも役に立つはずだ。

今回お話を伺ったのは、新潟県と会津地方の地域史を調べている福島県史学会会員の目黒公司氏(以下、目黒氏)。目黒氏は論文「郷土玩具「赤べこ」の由来と柳津の撫牛」(『福島史学研究』第103号、2025年)で、赤べこの由来を史料からたどった。

目黒氏が明らかにしたのは、赤べこと、柳津にあったもう一つの牛「撫牛」の歴史だ。本記事では、インタビューでのお話に、論文で示されている史料を補いながら、その歩みをたどっていく。

第1章:山城、ダム、只見線、そして赤べこ――「地域資源」を見直す地域史研究

大学に属さない「一般人」として

目黒氏は、自らを「ただの一般人」と言う。

私自身は別に何かに所属しているとかではなく、ただの一般人です。招き猫研究所のインタビューで登場している、大学に所属しているような研究者の方とかではないので、私が研究と言っていいのかどうかというのはあるのですが。

目黒氏

それでも、その仕事の幅は広い。中世の山城の遺構、ダムや発電所、只見線、戊辰戦争、学校の校歌。新潟県と会津地方を中心に、城郭研究の専門誌や地域の郷土史誌に、数多くの論考を寄せ、市民オペラ事業にも参加している。

きっかけは、柳津の旅館と只見線

会津と目黒氏をつなぐのが、柳津町の旅館「花ホテル滝のや」だ。目黒氏は10年以上にわたってこの旅館に関わり、旅館が開いている「花ホテル講演会」でも、何度も話をしてきたという。

もう一つが、JR只見線だ。只見線は、2011年の新潟・福島豪雨で大きな被害を受け、一時は存続も危ぶまれた。

我々が住んでいる過疎地域にとっては、ローカル線というのは非常に重要な地域資源になります。大規模災害で廃止とかじゃなくて、何とか存続させたいと、お世話になっている花ホテル滝のやオーナーの塩田さんをはじめ、他の人たちも私も思ってましたので、只見線列車内プロレス事業の実施や只見線のパンフレット「只見線を10倍楽しむ本」の作成など、只見線を応援する取組にも携わってきました。

目黒氏

只見線のイベントに関わり、只見川流域に数多くあるダムも、地域の資源として見直してきた。どれも仕事ではなく、大半がボランティアだという。

赤べこも「地域資源」の一つ

赤べこに目を向けたのも、その延長線上にある。郷土玩具や縁起物への関心から入ったわけではない。

私は地域にあるいろんなものを地域資源として、今までとは違った形で見直していくことが大切だと思っています。鉄道もそうだし、ダムもそうだし、地域資源という観点から見直す必要があると思い取組んでいました。赤べこに関しても、郷土玩具としての興味だとか、縁起物としての興味だとか、そういう訳ではなく、地域にあるものを見直していく取組の中で再検討したということになります。

目黒氏

目黒氏が暮らす地域では、人口が毎年500人、600人という単位で減っている。「地域活性化」という言葉はあまり使いたくない、と前置きしたうえで、目黒氏はこう話す。

地域の存続をどうしていくかは大きな問題です。よく「地域活性化」という言葉を使ってイベントなどを行ったりする場合があります。ですが、それよりも前にそれぞれの地域にあるものの見直し、それはいったい何なのか、なぜこの地域にあるのか、どんな意味があるのかという、地域資源の見直しが非常に重要だと私は思っています。あやふやな言い伝えとかではなく、根拠に基づくしっかりとした土台がないと、何かのイベントであっても、商品開発など他のことであっても、中身が伴わないものになってしまうと思います。

目黒氏

第2章:赤べこの由来に「柳津」が出てくるのは、昭和35年から

どの本にも書かれている「虚空藏堂を建てた牛」

今、赤べこの発祥の地とされているのが、福島県河沼郡の柳津町だ。

柳津には、日本三虚空藏の一つに数えられる圓藏寺がある。只見川を見下ろす崖の上に、虚空藏堂(菊光堂)が建っている。

一般に知られている赤べこの由来は、こうだ。虚空藏堂を建てるとき、材木を運ぶのに苦労していると、どこからか赤い牛の群れが現れて手伝ってくれた。その赤い牛をかたどったものが、赤べこである――。

ところが目黒氏が調べたかぎり、この話が赤べこの由来として本に出てくるのは、昭和35年(1960年)のものが最も古いという。論文によれば、それは福島県物産館が編んだ『郷土の玩具』だ。

今、ほとんどの観光パンフレットや、いろんな郷土玩具とか紹介する本には、赤べこの由来として柳津の圓藏寺、虚空藏堂建設の伝説があるのだと書いています。しかし、その伝説が赤べこの由来だとされるようになったのは昭和35年頃からだと考えられます。

目黒氏

同じ福島県物産館の『郷土の玩具』でも、わずか6年前の昭和29年(1954年)版では、赤べこは七夕の飾り物として紹介されていた。たった6年で、赤べこの由来の説明が入れ替わっているのだ。この「七夕」の話は、第3章で詳しく見ていく。

明治の赤べこは「赤牛」と呼ばれていた

では、赤べこそのものは、いつからあるのか。

目黒氏が確実だと考えているのは、明治時代だ。手がかりは、明治の郷土玩具研究者・収集家として知られる清水晴風の玩具画集『うなゐの友』にある。

晴風は全国の郷土玩具を収集するとともに、自分で集めた郷土玩具を絵に描いて、画集にまとめた。論文によれば、大正2年(1913年)に刊行された『うなゐの友』第六編に、「奥州会津の玩具」として「張子製の赤牛」が描かれている。

清水晴風の『うなゐの友』の中に、「奥州会津の玩具」「張子製の赤牛」という絵があります。『うなゐの友』第六編の刊行は大正の初期なので、清水晴風が張子の赤牛を手に入れたのは明治時代だろうと思います。多分、明治時代には確実にあったと思いますが、名称は「赤牛」であって、「赤べこ」ではなかったようです。

目黒氏

晴風の絵の赤べこは、四輪の台車に乗っていて、首が動くようになっている。今の赤べこには胴体の側面に黒い丸を描くが、晴風の「張子製の赤牛」には黒い丸は描かれていない。晴風の絵からすると、形は今と少し違うが、おおむね同じようなものが、明治時代には作られていたと目黒氏は考えている。

現在の赤べこ
現在の赤べこ

台車に乗っているのは、子どもが引っ張って遊ぶためだろう。明治の赤べこは、縁起物というより、まず子どもの玩具だったようだ。

幕末の「首振りべこ」は、確かめようがない

この「張子製の赤牛」が江戸時代までさかのぼれるかどうかは、分からない。

手がかりになりそうな記録はある。会津藩士の娘で、昭和19年(1944年)に94歳で亡くなった日向ユキが、晩年に幼いころの思い出を語った記録『萬年青』だ。若松城下の諏方神社の祭礼「授光祭」で、男の子は「首ふりべこ(牛)」などを買った、と書かれている。ただしそれは、幕末に子どもだった日向ユキが、晩年に子供の頃を思い出して語った話だ。

日向ユキの回想では男の子が「首ふりべこ」を買ったとあるのですが、90歳くらいの人が子供の頃を思い出して語ったものを、そのまま信用していいかという問題はあります。大人になってからの記憶と混同している可能性も考えられます。だから、江戸時代とか幕末に赤べこがあったかどうかというのは、今のところよく分からないです。もしかしたら原型になるものがあったのかもしれない、ぐらいでしか言えないですよね。

目黒氏

しかも、書かれているのは「首ふりべこ」という一言だけだ。それが張り子なのか、赤く塗られていたのかも分からない。論文では、赤べこの原型だった可能性はあるとしつつ、確かめるのは今後の課題だとしている。

第3章:戦前の赤べこは「七夕の飾り物」だった

彦星が乗っていく牛

大正時代から昭和の初めにかけて、郷土玩具のブームが何度か起き、郷土玩具を紹介する本がたくさん出版された。

そうした本で、赤べこはどう説明されていたのか。目黒氏が調べると、意外な答えが出てきた。

昭和前期の郷土玩具の本だと、赤べこは七夕の飾り物だと書いてあるんですね。

目黒氏

七夕の夜、織姫と彦星は天の川で年に一度だけ会う。彦星は牽牛、つまり牛飼いだ。その彦星が、織姫に会いに行くときに乗る牛。それが赤べこだ、というのが戦前の説明だった。

七夕で、牽牛が織姫に会いに行くときに乗る牛、それが赤べこだというようなことが、昭和前期の郷土玩具の本には書いてあるのです。柳津や虚空蔵堂建設との関係は何も書いてないんですよ。

目黒氏

たとえば論文で紹介されている、仙台鉄道局が昭和3年(1928年)に編んだ『東北土俗玩具案内』には、会津の赤べこについて次のように書かれている。

「舊七月六日七夕の夜牽牛星此の牛に乗つて来るといふ傳説から之を飾る」

旧暦7月6日、七夕の前の晩に、彦星(牽牛星)が牛に乗ってやって来る。その伝説にちなんで赤べこを飾るのだ、という説明だ。論文によれば、明治から大正の会津地域での七夕の記録には、赤べこを飾ったという記述は見つかっていない。それでも昭和の初めには、赤べこは七夕に飾るものとして、全国の郷土玩具の愛好家に知られていたようだ。

昭和2年(1927年)には、郷土玩具の番付に「會津赤牛」「赤ベーコ」の名が載っている。愛好家のあいだでは、すでに会津を代表する玩具の一つだった。

赤べこは若松、張り子は城下町の産物

もう一つ、大事な点がある。戦前の赤べこは、会津若松の郷土玩具だった。

清水晴風の絵の時点で、赤べこはすでに張り子だった。会津張り子には、天神様など何種類もの郷土玩具があり、その中で最も有名なのが赤べこだ。

目黒氏は、張り子が生まれた場所を、紙の使われ方から考える。張り子の材料は、真っ白な紙ではない。色々なことを書いて使用した後、いらなくなった反故紙だ。

真っ白な紙を最初から張り子に使うということは、少なくとも昔はしません。張り子は使い古した紙を材料にして作りますので、紙がいっぱい消費されるところじゃないと、張り子は作れないわけですよ。

目黒氏

使い古しの紙がたくさん出るのは、商人が帳面をつけ、役所が書類を作る城下町だ。会津でいえば、それは若松の城下町になる。

これは会津だけではありません。他の地域でも、張り子を作っていたところは城下町やその周辺が多いといわれ、紙の需要・消費がたくさんあるところでないと張り子は成立しないようです。会津の場合は若松が張り子の産地になりました。

目黒氏

張り子という同じ素材でつくられる招き猫にも、通じる見方かもしれない。

第4章:柳津にあった、もう一つの牛「撫牛」

手のひらに乗る、陶器の牛

赤べこが七夕の飾り物だったのだとすると、柳津の「虚空藏堂を建てた牛」の話は、もともと何の由来だったのか。

目黒氏によれば、柳津には赤べことはまったく別に、撫牛というものがあった。

撫牛と聞くと、天満宮の境内などにある、寝そべった牛の石像や銅像を思い浮かべる人が多いだろう。自分の体の悪いところと同じ場所をなでると良くなる、といわれるものだ。しかし、目黒氏は近世の撫牛を研究した茶園直人氏の研究を参考に、屋外に置かれた牛の像を撫牛と呼ぶようになったのは、おそらく戦後のことだという。論文でも茶園直人氏の研究を引きながら、天満宮などの牛の像を撫牛と呼ぶのは戦後のことで、江戸時代から昭和の初めまで、撫牛といえば小さな縁起物を指していたと説明している。

もともとの撫牛は、もっと小さなものだった。

縁起物としての撫牛は手のひらに乗るくらいの小さいものです。牛が寝そべった姿を模したもので、柳津の場合は陶器でできたものでした。天満宮などの境内にある石像や銅像ではなく、小さな縁起物が、もともとの撫牛なんですね。

目黒氏

江戸や大阪のような大きな町や、大きな寺社では、江戸時代から、こうした小さな牛の置物を縁起物として頒布していた。それを撫牛と呼んでいたのだ。持ち運べる大きさで、寺社で売られたり配られたりしたことが、撫牛の特徴だという。

戦前は「撫牛」が、虚空藏堂を建てた牛だった

柳津の圓藏寺で撫牛が頒布されるようになったのは、大正時代ごろからだという。論文によれば、大正2年(1913年)の案内書『柳津霊境誌』に、柳津の御土産物として撫牛が載っている。

柳津の撫牛は、土で作って金色に塗ったものが中心で、木彫りのものもあった。作っていたのは柳津ではなく、焼き物の産地である大沼郡本郷町(現在の会津美里町)だ。牛の頭の上には、大黒天があしらわれていた。昭和8年(1933年)からは、大・中・小の3種類が作られていたという。

そして戦前の郷土玩具の本には、柳津の撫牛こそが、虚空藏堂を建てるために使った牛をかたどったものだと書かれていた。

戦前の郷土玩具の本を見ると、赤べこは七夕の飾り物だと説明しています。一方、柳津で頒布されているお土産品、縁起物の撫牛は、虚空藏堂建設のために使った牛をかたどったものだ。そういうふうに説明されているんですね。

目黒氏

つまり戦前には、若松の赤べこと柳津の撫牛という、二つの別々の牛があったことになる。

赤べこ撫牛
売られた場所会津若松柳津(圓藏寺)
作られた場所会津若松大沼郡本郷町
素材張り子焼き物(土製・金塗り)。木製もあった
戦前の説明七夕の飾り物(彦星が乗る牛)虚空藏堂の建設に使った牛
その後作り続けられている戦時中か、遅くとも昭和30年代初めまでに姿を消す

撫牛が消え、由来だけが赤べこに移った

ところが、柳津の撫牛は姿を消す。はっきりした時期は分からない。論文では、昭和33年(1958年)の本に、最近は廃絶したようなことも耳にしている、とあることから、遅くとも昭和30年代の初めまでにはなくなっていたとしている。

太平洋戦争中には、圓藏寺も鐘を供出するなど、戦争の影響を受けていた。撫牛を作っていた本郷町も、戦時中は生産が統制されていた。柳津の撫牛は、戦時中か戦後すぐの時期に途絶えた可能性が高いのではないかと目黒氏は見ている。

そして昭和30年代半ば、目黒氏が確認したかぎりでは昭和35年の福島県物産館編『郷土の玩具』から、赤べこの説明が変わる。そこには、徳一大師が虚空藏堂を建てたとき、建材を運んだ赤牛が、寺の完成の晩に一夜で石になった、という伝説にもとづいて赤べこが作られた、と書かれている。

柳津の撫牛は戦時中か昭和20年代に廃絶してしまいました。若松の赤べこは作り続けられているのですが、昭和30年代半ばになって、廃絶した撫牛の伝説というか、いわれ、由来を、赤べこにくっつけた形になります。

目黒氏

それ以来、赤べこは虚空藏堂を建てた牛をかたどったものだ、と語られるようになった。一方で、「赤べこは七夕の飾り物」という説明は、ほとんど聞かれなくなっていった。

もし、撫牛が戦後もずっと作り続けられていたら、撫牛が虚空藏堂建設のための牛をかたどったものだという説明が続いていたのだと思います。撫牛が存在していれば、赤べこの由来が虚空蔵堂建設になることはなかったと思います。

目黒氏

今の赤べこの由来は、昔から赤べこについて語られてきた話ではない。姿を消した別の縁起物の由来を、赤べこに移して語り直した由来だったのだ。

なぜ柳津では「牛」なのか

そもそも、なぜ柳津で牛が特別な存在になったのか。目黒氏は、圓藏寺の本尊である虚空藏菩薩との関係を挙げる。

虚空藏菩薩は、丑年と寅年に生まれた人の守本尊とされている。

守本尊とは十二支の各々に仏・菩薩をあてたもので、子が観音、丑寅が虚空蔵、卯が文殊、辰巳が普賢などとされている。もともとは方位の十二支に仏・菩薩をあてたもののようだが、そこから転じて、虚空蔵菩薩は丑年、寅年生まれの人を守護する仏だという信仰が生まれていったと考えられている。

少なくとも明治時代までには、虚空蔵菩薩が丑寅生まれの守本尊という信仰が柳津では確立していると思います。そこから、虚空蔵菩薩と牛とのつながりができていったようです。

目黒氏

江戸時代についてはどうか。会津の代表的な地誌である『新編会津風土記』には、圓藏寺の虚空藏堂の由来が詳しく書かれている。しかし、そこに牛の話は出てこない。

一方、明治時代になると、柳津の虚空藏菩薩と牛との関わりが、はっきり見えるようになる。虚空藏堂の中には、牛や虎を描いた奉納額が数多くあり、その一つは明治27年(1894年)に奉納された丑寅の図だ。境内の手水舎の隣には、寝そべった牛の石像もあり、明治時代に奉納された石像だと思われる。丑年・寅年生まれの人たちの集まりである「虚空藏講」も、明治時代に会津の各地で結成されていた。

寺を建てるときに荷物を運んだ牛が、のちに石になった――。そうした伝説そのものは全国にあり、会津にも2か所ほどあるそうだ。柳津の撫牛も、まさにこの「石になった牛」の伝説にちなむものとして紹介されていた。

第5章:赤は疱瘡除けの色――会津藩の「赤牛」と、つながらない100年

会津藩は、生きた赤牛を見せていた

赤べこといえば、やはり赤い色だ。高崎のだるまのように、赤は病を遠ざける色として、縁起物に使われてきた。

招き猫研究所の大久保先生のインタビューでも言及されていますが、赤色というのは、病気を除ける色、特に疱瘡(天然痘)を除ける力があるとか、あとは生命力の強さを表現するとか、民俗的にはそういう意味合いがある色だといわれています。

目黒氏

赤と牛の組み合わせについて、目黒氏は江戸時代の会津藩の記録を紹介してくれた。

会津藩は若松や江戸で、本物の赤毛の牛を飼っていた。そして、まだ疱瘡にかかっていない人々に、その赤牛を見せた。赤牛を間近で見れば疱瘡にかかっても軽く済む、と考えられていたからだ。

酒井耕造氏の研究によると、江戸時代の会津では赤牛を見ると疱瘡が軽く済むといわれていたようで、会津藩では赤牛を人々に見せたり、江戸の将軍に献上したりしています。赤牛には疱瘡を軽くする効果があると考えられていたようです。

目黒氏

ほかにも、子どもに赤牛の股の下をくぐらせると疱瘡にかかっても軽くなる、という言い伝えがある。疱瘡の薬の材料に、赤牛の糞を使うこともあったらしい。疱瘡は感染力が高く、罹患すると重体化することも多いので人々に恐れられていた。江戸時代には、疱瘡を軽くする効果があるとして、赤牛への信仰が確かにあった。

それでも「赤べこ=疱瘡除け」とは言い切れない

では、疱瘡除けの赤牛を張り子にしたのが、赤べこなのか。目黒氏の答えは慎重だ。

疱瘡を軽くする効果があるという赤牛を、張り子で作ったのが赤べこかというと、そこまでは何とも言えず分かりません。赤べこは疱瘡除けのための赤物の一つだといわれ、私もその可能性は見ていいと思うのですが、江戸時代の赤牛と赤べことをそのままつなげられるかといったら、今のところそれはできないと思います。なぜかというと、その間をつなぐものがないからなんですよ。

目黒氏

会津藩の記録で赤牛を見せたという記述があるのは18世紀後半のこと。そこから赤べこの存在が確実に分かる大正初めの清水晴風の絵まで、およそ100年の間がある。

しかもその間の幕末には、会津でも種痘が広まっていく。牛からとった牛痘を使い、西洋医学にもとづいて疱瘡を防ぐ方法だ。赤牛を見せるという民間の信仰よりも、確実な方法が広まった後に、人々が赤牛をどう考えていたのかも、分からない。

その100年の間に、何かしら確実性のある史料とかで、張り子の赤べこの存在だとか、赤牛と疱瘡の関係だとか、そういうのが出てくるのであればもうちょっと別のことを言えるかもしれないのですけど。今のところは日向ユキの回想に出てくる「首ふりべこ」くらいしかないので、会津藩の赤牛と赤べことの関係は何とも言えないです。

目黒氏

論文によれば、昭和前期の本には、赤べこが子どもの疱瘡除けにも使われていた、という記述も見られる。ただしそれは、赤く塗られているから「赤物」の一つとして使われるようになったもので、最初から疱瘡除けを目的に赤く塗っていたわけではないようだ、と論文はまとめている。

「もしかしたらそうかもしれない」と思えることでも、史料でつながらないかぎり、そうだとは言わない。目黒氏の話は、その姿勢で一貫していた。

第6章:なぜ昭和30年代に、由来が書き換わったのか

観光客が求めた「歴史のある由来」

では、なぜ昭和30年代半ばに、赤べこの由来が変わったのか。論文では、その背景に会津の観光ブームがあったと考えている。

戦後の会津若松では、鶴ヶ城や白虎隊を打ち出した観光が本格化する。昭和35年(1960年)以降は高度経済成長の波に乗り、会津の観光は大きく伸びていった。

赤べこが観光客のお土産になったのも、戦後のことだ。会津若松で長く赤べこを作ってきた職人は、こう振り返っている。

「戦前は赤べこといっても、あまり人気がありませんでしたね。人気が出てきたのは、戦後、観光客が増えてきてからです」

お土産として売るには、その品の「いわれ」が欲しくなる。そこで、姿を消した撫牛の由来が、赤べこの由来として語り直されたのではないか、というのが論文の見立てだ。

年賀切手が広めた「柳津の赤べこ」

さらに追い風になったのが、昭和36年(1961年)の丑年の年賀切手だ。図案に、岩手の金ベコと並んで福島の赤べこが採用されると、赤べこの売れ行きが伸びたという。

新聞や本、観光パンフレット、そして赤べこを買った人たちを通じて、「赤べこは柳津の虚空藏堂を建てた牛」という説明が広まっていった。昭和40年代後半には、七夕の話はほとんど書かれなくなり、虚空藏堂の話だけが赤べこの由来として残った。

論文では、観光都市・会津若松の集客に貢献するため、観光客という「他者の目」を意識して戦後の会津で形成された「観光史学」という考え方にも触れている。赤べこの由来が会津の古刹である圓蔵寺の虚空蔵堂に結びつけられたのも、観光客を意識したものなのかもしれない。

「虚空蔵堂建設のために使役した牛をかたどった」という話が撫牛の廃絶と共に消えてなくなるのではなく、赤べこに移されて語り直されたということは、話に需要があったとも考えられます。この話自体は昭和初期に作られたものだと思いますが、撫牛はなくなっても、撫牛に付されていた話は残ったということになり、物語の力を感じさせます。

目黒氏
年代赤べこ柳津の撫牛
幕末若松の祭礼で「首ふりべこ」が売られていた(原型の可能性)—
明治〜大正2年(1913年)『うなゐの友』に会津の「張子製の赤牛」大正2年の『柳津霊境誌』に御土産物として登場
昭和初め七夕に飾る牛として紹介される虚空藏堂を建てた牛(石になった牛)にちなむ縁起物
戦時中〜昭和30年代初め七夕の飾り物(昭和29年の本でも)姿を消す
昭和35年(1960年)虚空藏堂を建てた牛にちなむ、と書かれる—
昭和36年(1961年)丑年の年賀切手に採用され、人気が広がる—

第7章:「創られた伝統」を見分ける――由来をさかのぼるということ

初詣も、神前結婚式も、新しい伝統

最後に、伝説の語り継がれ方について尋ねると、目黒氏は「創られた伝統」という言葉を挙げた。近代になって作り出されたのに、近代以前からある伝統だと思われているもののことだ。

たとえば初詣。大きな寺社にわざわざお参りに行く習慣は、明治時代に、鉄道会社が乗客を増やすために打ったキャンペーンから広まった。神前結婚式も、江戸時代にはなかった。

神社とかお寺とか、そういう古めかしいものに関することだと、すごく昔から、江戸時代とかその前から続いているものみたいな感覚になっている場合がありますが、本当は明治や大正時代に始まった風習だったりすることがあります。そういうのを創られた伝統という言い方をする場合があるのですけれども、赤べこの場合も似たようなところがあるかもしれません。

目黒氏

「どこまでさかのぼれるか」を確かめる

赤べこの柳津由来説は、昭和30年代半ばから語られるようになったものだ。それ以前、赤べこと柳津は関係がなかった。

今言われていることが、そのままその通り受け取っていいのかどうかというのは、考えたほうがいいですよね。その出所がどこなのか、いつから言われているのか、どこまでさかのぼれるのか。赤べこの由来はさかのぼっていくと、もともとは違うものでした。

目黒氏

そしてそれは、赤べこだけの話ではない。

招き猫とか、他のいろんなものでも同じことだと思います。例えば、招き猫の由来といわれる話もいくつかありますが、それがどこまでさかのぼれるのか、原点はどこなのか。そういうことを調べていったら、もしかしたら、もともとは別のものの由来だとされていた話が、いつしか招き猫の由来だとされていったものがあるのかもしれません。

目黒氏

目黒氏は、今の由来も歴史的な変遷の結果としてあるので、すべて否定する必要はないとも言う。ただ、昔のものがそのまま今に伝わっていることはあまりなく、変化があることを前提にして考えた方がいい。そのことを知っておくのが大事だという。

後から書かれたものは、後の人が書いたもの

史料を見るときの目黒氏の基準は、はっきりしている。史料はすべてそれが作られた時代のことを伝えるものだということだ。

例えば、江戸時代には戦国武将の戦いなどを書いた軍記物が多く出版されました。軍記物には色々な戦いや人物の逸話が書かれていますが、江戸時代の人の創作が多く含まれているので、書いてあることをそのまま戦国時代の出来事だと捉えることはできません。一方、軍記物は武士が軍学を勉強するために使われたり、庶民の間でよく読まれたりしました。ということは、江戸時代の人々が戦国武将に対してどのような意識を持っていたかを知るためにはまたとない史料となるわけです。

目黒氏

自分の先祖をたどるルーツ探しも、同じだという。家系図には、先祖を有名な武将や貴族などにつなげたがる傾向がある。

家系図も、あくまでもその家系図が作られた時点での認識を示す史料です。家系図は自分の家系の由緒、自らのアイデンティティを作り出すために作る場合が多いので、先祖は有名な武士や名門貴族につながるとすることが多いです。家系図が作られた時点に近い情報は信憑性がありますが、さかのぼればさかのぼるほど作為性が高くなり、信憑性は低くなりがちです。何かしら根拠があるから書いているのかもしれませんが、その根拠は何なのか、その根拠は信用できるのかを確認していく必要があります。

目黒氏

ネットの情報を見分ける力にも

この考え方は、歴史の話にとどまらない。

特に今、フェイクニュースとか、ネットリテラシーといったことが盛んに言われます。インターネットの情報も、それが信頼できる情報なのか、原点になっているのがどこなのか、そういうことをきちんと見分けていかないといけません。招き猫や赤べこの由来を検討していくことは、ネットの情報だとか、あやふやな情報をそのまま信用するのではなく、信用できることなのかどうか、いったん立ち止まって判別する考え方とも通じる面はあると思います。

目黒氏

何かに書いてあるからといって、そのまま信じる前に、一歩とどまって考え直す。

これは何でもそうです。ルーツ探し、ネットの情報もニュースもそうだし、郷土玩具の話だって同じことだと思います。全部に通ずることだと思います。

目黒氏

まとめ:由来をたどると、縁起物はもっと面白くなる

赤べこの由来として語られる「虚空藏堂を建てた赤い牛」の話は、もともと柳津の撫牛の由来とされていた。戦前の赤べこは、若松の張り子で、七夕に彦星が乗る牛として説明されていた。撫牛が姿を消したあと、会津の観光が盛り上がる昭和30年代半ばに、その由来が赤べこへと移された。

目黒氏の話は、今の由来を否定するものではない。むしろ、赤べこが時代ごとに違う意味をまとってきたこと、歴史的な流れの中で由来は変化していくことを教えてくれる。子どもが引いて遊ぶ玩具だった時代も、七夕の牛だった時代も、観光のお土産として広まった時代も、すべてが赤べこの歴史の一部だ。

招き猫にも、豪徳寺、今戸神社、自性院など、各地にさまざまな由来の伝説が残っている。その話がいつから、どこで語られるようになったのか。目黒氏のように一つずつ史料をたどってみると、手元の縁起物が、これまでとは少し違って見えてくるかもしれない。