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インタビュー

信楽の狸が、縁起物を店の外へ連れ出した――工芸史研究者・畑中英二が語る、やきものの産地と縁起物

滋賀県甲賀市の信楽を訪れると、駅前にも、窯元の軒先にも、道ばたにも、笠をかぶった狸の置物が並んでいる。愛知県の常滑や瀬戸は、招き猫の産地として知られている。やきものの産地と縁起物は、切っても切れない関係にあるように見える。

ところが、信楽の狸が生まれたのは、意外にも新しい時代のことだという。しかもその狸は、縁起物の歴史の中で「革命的」な存在だったという。

なぜ、やきものの産地は縁起物を生んできたのか。そして縁起物は、どのように形を変えてきたのか。

今回お話を伺ったのは、京都市立芸術大学 美術学部 総合芸術学科 教授の畑中英二氏(以下、畑中氏)。考古学の立場から信楽焼を研究し、論文「信楽焼技術の変遷」(『信楽焼の製造技術 民俗文化財調査報告書』甲賀市、2020年)や、著書『信楽焼の考古学的研究』などを著してきた。六古窯の研究者たちと研究会を作り、汽車土瓶の研究にも取り組んでいる。

鎌倉時代から続く信楽焼の歩みから、狸と招き猫、そして「かわいい」縁起物の誕生まで、お話を伺った。

第1章:遺跡から出てくるのは、ほとんどが焼き物――考古学者が信楽焼を研究する理由

日本の考古学と、焼き物の深い縁

考古学は、遺跡から出てくる「もの」から、人の暮らしや社会を明らかにしていく学問だ。畑中氏は、日本の考古学と焼き物の研究は、とりわけ相性がよいのだという。

日本なんか特にそうなんですけれども、酸性の土が多いわけなんです。なので、有機物は腐ってなくなっちゃうわけなんです。で、遺跡を掘ると出てくるのは大半焼き物だということになって、日本の考古学をやっている人の多くは、焼き物の研究とは親和性がすごく高いんですよね。

畑中氏

京都で生まれ育った畑中氏にとって、近畿地方の焼き物は身近な研究対象だった。焼き物は形の自由がきくぶん、さまざまなものが作られ、人の暮らしにとても近い。さらに京都・大阪の周りには、多くの人口を抱える都に向けて、さまざまな産業が生まれた。明治以前の近畿の焼き物を調べることは、日本列島の多くのことを知る手がかりになるという。

「昨日の続きの今日」を研究する面白さ

数ある焼き物の産地の中で、なぜ信楽なのか。畑中氏は、学生時代の先生たちの教えを振り返る。

研究するときに「ある時代のあるもの」と区切ってしまうと、楽ではある。しかし、人の営みはそこで終わるわけではない。その前と後の流れで見なければ、本当のことは分からない――。そう教えられてきた畑中氏にとって、鎌倉時代から現在まで焼き物を作り続けている信楽は、研究対象として非常に面白い産地だった。

直接のきっかけは、2001年に担当した信楽焼の窯跡、金山遺跡の発掘調査だ。

30年以上調査研究なかったんですよ。で、さあ掘るよっていうことで、私が担当させていただくことになって、じゃあちょっと真面目にやってみるかねっていう。まあそんな感じでしたね。

畑中氏

いまも続く産業を考古学の目で研究することには、ほかの分野にはない面白さがあるという。

昨日の続きの今日っていう言葉がありますけれども、それがすごく活かされやすくて。昔こうだったみたいなのを明らかにするっていうのは、当然面白いんだけれども、それがあるから、今こうなんだよねっていうようなところはね、やっぱり非常にエキサイティングというか。

畑中氏

「六古窯」は、本当は七つ?

畑中氏は現在、信楽を含む六古窯(信楽・常滑・瀬戸・越前・丹波・備前)の各地の研究者と研究会を作り、情報を共有したり、研究発表をしたり、本を作ったりしている。

六古窯という呼び名には、語呂のよさもあったのではないか、と畑中氏は言う。

実はね、語呂が良くて六古窯になったっていう。で、六古窯になったんですけれども、厳密に言うと七。美濃が入ってない。あと、信楽の隣の伊賀も入ってないとか。

畑中氏

六古窯という呼び名が決められた当時は、美濃(岐阜県)に古くまでさかのぼる窯があるとは、まだ知られていなかったらしい。実際には、美濃も古くから今まで焼き物を作り続けている。伊賀と信楽は、あまりに近いので一つと数えてもよいかもしれない。少なくとも七つはあった、というのが畑中氏の見方だ。

第2章:信楽は「売れるもの」を作り続けてきた――すり鉢から茶陶、化学工業の器まで

大きくて重いものを、消費地の近くで

中世の六古窯が主に作っていたのは、釉薬(うわぐすり)をかけずに焼き締めた、壺・甕(かめ)・すり鉢だった。すり鉢は、今でいえばとんかつ屋でごまをする、あの道具だ。畑中氏は「当時でいうと、フードプロセッサー」と表現する。

壺や甕、すり鉢は、大きくて重い。一か所でまとめて作ると、運ぶ費用がどんどん上がってしまう。そこで、それぞれの産地が、自分たちの届けやすい地域に向けて作るようになった。

産地中世の主な役割(畑中氏のお話から)
備前海沿いの産地。瀬戸内海一円に供給
常滑目の前が海。海を使って長距離に運ぶ
越前日本海側に供給
瀬戸例外的に、中国の陶磁器に似た、釉薬をかけた器に特化
丹波・信楽中世最大の町・京都に向けて、大きく重いものを供給

信楽焼は、鎌倉時代の「ベンチャービジネス」だった

信楽焼が始まったのは、13世紀、鎌倉時代のことだ。周りにはすでに大きな産地があった。東の常滑から見ても、信楽のあたりは一番遠い。

まあ、言ってみれば、ベンチャービジネスなわけですよね。ここに拠点を置けば、埋めていけるんじゃないか、みたいな。で、もともと何にもないところで、13世紀ですね、鎌倉時代に、やってみようぜ、ということになるわけなんです。

畑中氏

何もないところから始めるには、どこかから技術を教わる必要がある。候補は常滑か、兵庫県の播磨か。信楽は常滑を選んだ。畑中氏は、それぞれの土地の領主どうしが近しい関係にあったのではないかと考えている。

多分、人ごと来てるんですよ。ノウハウの書いてある本みたいなものをもらったとかじゃなくて。ちょっとビジネス始めたいからって言って、何人かチーム作って、で、信楽まで連れてきて、っていう。まあ、そんな感じだったように考えられますね。

畑中氏

「伝統だから作る」のではなく「売れるものを作る」

信楽焼は、甕やすり鉢、茶陶、火鉢、汽車土瓶と、時代ごとに主力の製品を変えてきた。その理由を尋ねると、畑中氏は「伝統産業」のイメージそのものを問い直した。

今考える伝統産業みたいなものありますよね。うちはもう前からこれ作ってたから、これからも作る、みたいな。実はそんなことは、誰も考えてない。どっちかというと、生きていけるために、売れるものを作る。

畑中氏

ほかの産地の製品の評判がよければ、それをまねる。「こうやった方が売れるらしいで」となれば、ためらわずに新しいことに挑戦する。それが産地の姿だったという。

ただし、明治時代に入るまでの主力製品は、壺・甕・すり鉢の「3点セット」だった。そのうえで、信楽には大きな変わり目が二つあった。

変わり目1:京焼の「ボディ」を作った18世紀

一つ目は、18世紀半ば、江戸時代中期だ。17世紀後半に仁清や乾山といった名工が登場し、京都の焼き物、京焼のブランドが確立していた。江戸をはじめ各地の人が「京都のものが欲しい」と言い出した。

ところが京都は町が小さく、粘土もそれほど取れない。燃料の薪を取る山も小さい。京都は、たくさん作る産地ではなく、ブランド力を上げて高く売る方向に進んでいた。それでも、もっとたくさん作ってほしいという声に応えるために、京都に近い窯場の一つである信楽で、京都と同じものを作るようになったという。

例えば、ボディだけ、信楽で作って、出来上げたものを京都に持って行って、絵付けをして、京都だよ、みたいな。

畑中氏

器の素地は信楽で作り、絵付けは京都で行う。このころから、信楽と京都のあいだには、非常に強い結びつきが続いていく。

変わり目2:焼き物が「ガラスの代わり」になった明治

二つ目は、明治以降の近代だ。日本でも化学工業が始まると、硫酸や硝酸のような強い酸を扱う必要が出てきた。金属の配管では、腐食して溶けてしまう。欧米ではガラスを使うが、明治に入ったばかりの日本では、まだガラスを十分に作れなかった。

そこで目をつけられたのが、焼き物の表面の釉薬だった。

これ、釉薬って言いますよね。招き猫の表面にもありますけれども。これ、ガラスなんですよ。粘土の上に、ガラスが一層ある、っていう、そういう状態なんですね。ということは、これで工場の配管とかを作ればいいじゃないか、っていうことで、一気にそっちに向かっていく人たちっていうのがいる。

畑中氏

信楽では、こうした化学工業で使う焼き物(耐酸陶器)が盛んに作られた。産地によって進んだ道は違い、備前ではレンガ、常滑では土管が作られた。常滑はさらに、土管から便器へと展開し、今のINAX(LIXIL)につながっていく。信楽は、庶民の暮らしに欠かせない壺や甕、すり鉢を作り続けながら、こうした新しい製品も盛んに作ったのだ。

茶の湯の世界で選ばれた、信楽と備前

戦国時代から桃山時代には、茶の湯の道具(茶陶)でも、信楽は特別な位置を占めた。

それまでの茶の湯では、中国から輸入した高価な道具をふんだんに使うのが標準だった。しかし、千利休のような、わび茶を広めた人たちは、言ってみれば「新しいお金持ち」で、古くから名のある茶道具を持っていない。だから、新しい価値観を打ち出す必要があった。

畑中氏によれば、おそらく堺の茶人たちが、いくつもあった窯場の中から、信楽と備前にだけ声をかけて茶陶を作らせた。丹波や越前では作られていない。瀬戸には中国の焼き物に似たものを作らせたが、それは普段使いやお稽古用の扱いで、茶会には出さなかったという。

茶会記で出てくるのは、もう信楽か備前しかない。これは、かなり特殊な事情があったんでしょうね。

畑中氏

第3章:信楽の狸は「外に置ける縁起物」の始まりだった

大物づくりの名人・藤原銕造

では、信楽の狸はいつ生まれたのか。畑中氏は「これがね、意外と新しいんですよ」と言う。そしてその話は、常滑や瀬戸の招き猫とも関わってくるという。

狸の誕生に関わったのは、伊賀出身の陶工、藤原銕造(ふじわら・てつぞう)だ。銕造は京都で焼き物を作っていたが、大きなものを作るのがとても得意な人だった。

今でも田舎の料理旅館とか行くと、大広間に、背丈ぐらいある土瓶、巨大な土瓶とかが置いてあったりすることがあるんですけど。彼はそういうのが、すごい得意だったんですね。

畑中氏

ところが京都は、小さくきれいに作ったものを高く売る産地で、窯もこぢんまりとしていた。大きな化学工業用の焼き物を盛んに作っている信楽に行けば、思い通りのものが作れるのではないか――。そう考えた銕造は、大正年間に信楽へ移り住み、大きな土瓶や狸の置物を作った。こうして信楽に「大物づくりの名人」が現れ、狸の置物は昭和の初めには名物になっていったという。

縁起物が、雨のかかる「店の外」へ出た

畑中氏が強調するのは、信楽の狸が持つ大きな特徴だ。それは、焼き物で作られていて、しかも外に置くということだ。

雨がかからへんところに置くっていうものが、いきなり外に出る。店頭に出て招くっていう。で、これって、今までの縁起物の世界の中では、革命的ですよね。

畑中氏

それまでの縁起物の置物は、どうだったのか。招き猫も狸も、江戸時代の後期には置物として登場している。厳密には江戸時代の前期から似たものがあるが、数は少なく、大きさも手のひらより少し大きいくらいのものばかりだった。ルーツは、京都の伏見人形と考えられるという。

素焼きで焼いて、絵の具で描くんですよ。ということは、水拭きはできへんし。で、かつ、外にも置けないですよね。という制約を打ち破るわけなんですね。

畑中氏

屋外に置く招き猫は、瓦の産地でも作られている。新潟・白山神社に奉納された安田瓦の招き猫は次の記事で紹介している。

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岡本太郎も気づいた、焼き物の「強さ」

焼き物が外に置けるほど丈夫だということは、芸術家の岡本太郎も見抜いていた。もともと絵描きだった岡本太郎は、ある時期から立体作品を作り始める。大阪万博の《太陽の塔》の背面にある「黒い太陽」は、信楽で作られたことで知られている。その前に、岡本太郎は焼き物の作品を作っていた。

遺跡を掘ったら、焼き物ばっかり出てきますって話をしましたけど、焼き物って、千年経っても変わらないんですよ。で、釉薬も、本焼きで一度色をつけたら変わらないので。

畑中氏

ブロンズ(銅)でも立体は作れるが、色をつけられない。自分の作品を長く見てもらうには、焼き物で作るのが正解だ。そう考えた岡本太郎は、やがて《太陽の塔》に至る。

信楽の狸も同じだ。焼き物で作れば、外に置ける。少し汚れたら拭けばいい。管理はとても簡単だ。

カーネル・サンダースもペコちゃんも、狸の子孫?

縁起物が店の外に出たことは、日本人のメンタリティにも大きく関わっていると、畑中氏は言う。

例に挙がったのは、ケンタッキーフライドチキンの店頭に立つカーネル・サンダースの人形だ。1985年、阪神タイガースの日本一に沸いたファンが、道頓堀川にこの人形を投げ込んだ騒動は、今も語り草になっている。

あれ、日本人にはああいう人形を置いたらウケるっていうことを考えて、日本で人形化したらしい。で、それの先祖をたどっていけば、どう考えたって、信楽の狸なんですよね。

畑中氏

洋菓子店のペコちゃん、薬局のサトちゃん。日本には、店先にキャラクターの人形を置く店が多い。

立体化して店頭に置いてしまえっていう。で、それを最初に可能にした、その挑戦をしたのが、信楽の狸であるというふうに考えるのは、間違いではないでしょうね。そういう地平を切り開いたという意味では、非常に意味のあるものではあったかなというふうに考えますね。

畑中氏

一品ものから、型による量産へ

信楽の狸は、その後どんどん量産されるようになる。技術の面では、原型を作り、型を作って、次々に作っていくのが基本の形だ。狸も招き猫も、作り方は同じだという。

一方で、古い狸は一品ものだ。

藤原銕造さんが最初の頃に作っただろうっていうやつ。ああ、これは一品ものやんなっていう。そんな感じ。

畑中氏

大きな狸を支えた、信楽の土

信楽で大きな狸が作れたのには、土の性質も関わっている。焼き物は、焼くと縮む。縮みやすい粘土で大きなものを作ろうとすると、それだけ割れたりゆがんだりするリスクが上がる。

そういう意味では、瀬戸と信楽の土は、非常に収縮率が低いので。で、まあ小さくはなるけど、想像できるサイズで収まるっていう感じだけど、他の産地だとそうはいかない場合が結構ありますよね。

畑中氏

その流れは今も続き、信楽では旅館やスーパー銭湯にある大きな陶器のお風呂まで作られているという。

第4章:物語はあとから付いてくる――八相縁起と、招き猫の「余白」

「他を抜く」狸と、昭和の「八相縁起」

狸が縁起物とされるのは、「たぬき」が「他を抜く」に通じるからだ。そのうえで、信楽の狸には「八相縁起(はっそうえんぎ)」と呼ばれる物語がある。笠や徳利、通帳、大きなお腹など、狸の姿の8つの特徴に、それぞれ縁起のよい意味を込めたものだ。

日本六古窯の公式サイトによれば、昭和26年(1951年)、昭和天皇が信楽を訪れた際、町の人たちは日の丸の小旗を持たせた狸を並べてお迎えした。この出来事が報道されて、信楽の狸は全国に知られるようになる。また、たぬき文化研究家の石田豪澄が八相縁起を考案し、八相縁起のしおりを付けて売ることで、狸の置物は縁起物として好まれるようになったという。

畑中氏によれば、八相縁起が作られたのは「昭和27年ですかね」という。

だから、それまでなかったところに、いきなり物語が再構成される。まあ、そういうことになりますね。

畑中氏

縁起物の世界は「ゆるい」

物語があとから付くのは、狸に限らない。畑中氏は、縁起物の世界そのものの特徴を、こう表現する。

こういう縁起物の世界とかって、ちょっとゆるくて、ガチガチのストーリーというよりは余白がいっぱいあって、再構成されるんですよね。常滑の招き猫とかでもそうですよね。右手あげているのはお金で、とか、左手あげたら人を、とか。そんな最初から言うてましたか?みたいな。

畑中氏

招き猫研究所でもたびたび取り上げてきた、右手・左手の意味の違い。こうした説明も、もともとあったものに、あとから「背びれや尾びれ」が付いていった可能性がある、というのが畑中氏の見立てだ。

新しい招き猫も、受け入れる寛容さ

その「余白」は、今も広がり続けている。たとえば、招き猫の産地・瀬戸で開かれている「日本招き猫100人展」では、作家たちが新しい招き猫を次々に生み出している。インテリアに合うモダンなデザインの招き猫や、アートとしてのだるまも増えてきた。

瀬戸市の方で、日本招き猫100人展とかっていうのがあって、要は新しい招き猫を作ろうとしてるわけですよね。これってもう、余白ありありで。招き猫ってこういうもんじゃないと、招き猫とは言わないみたいな、うるさいことは言わずに。ものすごい、入り口がガバガバ。で、新しいものも受け入れるよっていう、非常に興味深いあり方ですよね。

畑中氏

畑中氏は、それを生み出しているのは「日本人の寛容さ」なのではないか、と言う。

第5章:縁起物は「かわいく」なった――言葉から絵へ、立体へ、二頭身へ

戦後、招き猫も狸も「二頭身」になった

縁起物は、時代とともに姿を変えてきた。今が「多様性」の時代だとすれば、その前の大きな変化は戦後に起きた、と畑中氏は言う。その変化がとりわけはっきり表れているのが、招き猫だ。

戦前に瀬戸で作られていた時は、招き猫ちょっと長いんですよね。長細いんですよ。で、戦後に登場してくる、常滑系招き猫っていうのは、二頭身なんですね。

畑中氏

そして、同じ変化は信楽の狸にも起きた。戦後、常滑の招き猫をちらっと見たのかどうかは分からないが、信楽の狸もまた、二頭身になっていくのだという。

常滑系の招き猫の作り手については、招き猫研究所の梅月冨本人形園インタビューでも紹介している。

ゆるキャラも、同じ道をたどった

畑中氏は、全国各地のゆるキャラにも同じ流れを見る。最初は、人が着ぐるみに入ることを前提に、人の体に近い形をしていた。それがどんどん丸くなり、「お団子二つ」のような形になっていく。

それをするために、中でエアを回すんですよね、あれね。送風機がついてて、中からこう、ふくらして。そんなテクノロジーまで導入してまでも、かわいくありたいっていう。

畑中氏

言の葉から、絵へ、立体へ

さらにさかのぼると、縁起物には、もっと長い時間をかけた変化があった。

江戸時代の後期までは、縁起物の多くは、絵に描かれた二次元のものだった。それを伏見人形や、東京の今戸焼の職人たちが、土人形として立体にした。さらに瀬戸では、石膏型を使って量産するようになった。

物語が絵になるまでにも、長い時間がかかっている。たとえば招き猫の由来として語られる豪徳寺の話は、江戸時代の初めの物語とされる。

物語は、江戸の初期には誕生してるんだけれども、二次元化するのは、もっと後ですよね。100年、150年経ってから。始まりは物語、言の葉ですね、言葉。言の葉っていう世界から、二次元化されて、三次元化されて、かわいいになって。で、今や多様性。

畑中氏
段階縁起物の姿(畑中氏のお話から)
言の葉物語や言葉として語られる(例:豪徳寺の招き猫の話は江戸時代初め)
二次元絵に描かれる(物語から100〜150年後)
三次元伏見人形や今戸焼の土人形として立体になる(江戸時代後期)
量産瀬戸などで石膏型による量産が進む
外へ焼き物の信楽の狸が、店の外に置かれる
かわいい戦後、常滑系招き猫や信楽の狸が二頭身になる
多様性現在。日本招き猫100人展などで、作家による新しい招き猫が生まれる

人口が3倍になった100年

江戸時代までは、言葉が絵になるまでに100年かかるような、ゆっくりした変化だった。それが近代以降、急に速くなる。その理由を、畑中氏は「人口」で説明する。

明治の初めの人口調査では、日本の人口は4,000万人に届いていなかった。それが昭和40年代には1億人を超える。日清・日露戦争、二つの世界大戦と、多くの人が亡くなる時期をはさみながら、100年ほどで人口がおよそ3倍になったのだ。

人口が3倍に増えるっていうことは恐ろしいことなんですよね。今で言うと、一家に1台やったらいいはずのエアコンが3台売れるっていうことですよね。だから、ビジネスチャンスがびっくりするぐらいに、ほっといても大きくなる。

畑中氏

狸を売る店も、人口が3倍になれば3軒になる。放っておいてもいろいろなものが売れ、作り手は新しいものにも挑戦できる。

焼き物産業は、ここ100年、ものすごい狂い方をしているっていうのが、我々の認識ではあります。

畑中氏

人は、丸いものに安心する

では、なぜ縁起物は「かわいい」方向に向かったのか。

畑中氏は、日本人には人形が登場する前から、看板のような「サイン」に凝る文化があったと言う。そのうえで、店に縁起物を置くことには、「罪のない造形」であることが大きいのではないかと考えている。

芸術大学で教える畑中氏は、芸術作品が人の心に与える影響にも関心を持っている。

整った形っていうのは、すごく人を安心させるみたいなんですよね。ギザギザになって左右非対称のものを見ると、ゾワゾワっとして、もしかしたら、ワクワクっとするかもしれないけれど、心の安心は得られない。で、そうじゃなくて、丸い、まんまるいものがポンと置いてあると、ちょっと安心する。

畑中氏

ある動物に、とげとげしたものと丸いものを置いてみると、丸いものを選んで巣に持ち帰り、温めるようなしぐさをする、という実験の例もあるという。赤ちゃんがかわいく見えるのも、小さくて丸いからだ。清少納言も『枕草子』で、小さいものはみなかわいい、と書いている。

常滑系招き猫に代表されるような、丸二つみたいな。もう、かわいくてしょうがないですよね。図らずも人間の心理を突きに来てる。

畑中氏

ドラえもんも、ハローキティも、丸の集まりでできた二頭身だ。日本の「かわいい」文化とも重なる縁起物は、世界に打って出られるコンテンツかもしれない、と畑中氏は話す。

第6章:「やきもの縁起物」のこれから

産地は「求める人の顔」を思い浮かべて

これからの産地はどうなっていくのか。畑中氏は、産地はこれまで、人が求めるものに手を出し、しかも安いものを作り出してきた、と振り返る。そのうえで、これからの道をこう語る。

アンケートとか調査の結果から見ると、やっぱり、相変わらず食器としての焼き物って大好きなんですよね、日本人ってね。ですから、安かろう悪かろうじゃなくて、自分のお気に入りのものっていうのに出会えるように作り続けていただけたらいいかな。だからパイを大きくしていこうっていうんじゃなくて、いま一度求める人たちの顔を思い浮かべてみるっていうのが、一つの生きていく道なのかなと。

畑中氏

ネット通販が広がる中でも、焼き物の販売は、ほかの分野に比べると伸び悩んでいるという。食器は、手触りや重さが大事だからだ。一方で、招き猫のような置物は、写真で伝わりやすい。サイズ感さえ分かれば、ネットで売りやすいのかもしれない。

「やきもの縁起物」の天下は続く

縁起物の未来については、畑中氏は前向きだ。

私はひそかに、「焼き物縁起物」という言葉が成り立つのかなというふうに思っていて。ちょっと汚れたら拭けばいいじゃないとか、外にでも出せるじゃないとか。それでいて、量産のものだとそんな高くないとか、結構いいところが多いわけなんですよね。

畑中氏

一点ものでなくてもかまわないなら、焼き物は縁起物の素材として非常に優れている。

しばらく天下が続くんちゃうかな、というふうに思ったりしています。

畑中氏

信楽を訪れるなら

最後に、信楽を訪れる人へのおすすめを尋ねた。

やっぱり作っておられるところに、ちょっと見に行ってみるっていうのは一番大事かなとは思います。狸にはね、もう嫌というほど会えますから。

畑中氏

町のいたるところに、狸がいる。どこの狸を見に行けばいいかを挙げ始めるときりがない、と畑中氏は笑う。

まとめ:やきものの産地は、時代が求めるものを焼いてきた

信楽焼は、鎌倉時代に「ベンチャービジネス」として始まり、すり鉢や甕、京焼の素地、茶陶、化学工業の器と、時代ごとに売れるものを作り続けてきた。その中で生まれた狸の置物は、焼き物の丈夫さを生かして、縁起物を初めて店の外へと連れ出した。

縁起物の物語は、あとから付け加えられ、組み替えられていく。言葉から絵へ、絵から立体へ、そして戦後には丸くかわいい二頭身へ。招き猫も狸も、同じ流れの中で姿を変えてきた。

畑中氏の話からは、招き猫の「正しい形」や「本当の意味」を一つに決めることよりも、その時代の人が何を求めて、どんな縁起物を作ってきたのかを見ることの面白さが見えてくる。手元の招き猫がどの時代の、どんな願いから生まれた形なのか。そんな目で眺めてみると、縁起物はもっと面白くなるはずだ。