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招き猫の歴史・文化

招き猫の歴史はいつの時代から?商売繁盛の縁起物が、海外に広がるまでの道のり

「招き猫って、いつの時代からあるんだろう」「招き猫って、どうやって生まれたんだろう」。
商売繁盛の願いが込められ、飲食店の店先やお家の玄関で見かけるあの招き猫に、ふとそんな疑問を抱いたことはありませんか?

結論、招き猫の歴史は、今から約200年ほど前の『江戸時代の町』にさかのぼります。
店先に縁起物として置かれた招き猫が、やがて全国へ、そして今では海外へと広がっていった道のりを、紐解いていきましょう。

より詳しく知りたい方は『招き猫とは?意味・由来・種類から読み解く、日本が育んだ縁起物』もご覧ください…!

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目次

招き猫の歴史とは

江戸時代から現代の令和まで、縁起物として受け継がれてきた

招き猫の歴史は、江戸時代に始まったといわれています。
江戸の当時から、店先や玄関に据えて福・金運やお客を招く、という考え方が受け継がれてきました。

そして、明治時代に入ると、愛知県の常滑や瀬戸で招き猫の製造が本格化(工業生産化)し、全国へ広がっていきました。海路や鉄道の発達とともに、招き猫は日本中で親しまれる縁起物となったのです。

現代では、海外でも日本語のローマ字表記である「Maneki Neko」として知られるようになり、日本文化を象徴する縁起物のひとつとして受け入れられています。

実際に、招き猫を中国の飲食店で見かけることは多く、さまざまな種類はあるにしても、アジア各地に広まっています。欧米や韓国においても、観光土産やインテリアとして好まれている側面もあるのです。

江戸の町から世界へ、招き猫は一貫して「福を招く」縁起物として受け継がれてきた、といえるでしょう。

起源は定かではないが、いくつかの説が残されている

招き猫の発祥地や創始者は、文献が少なく定かではありません。
そのかわり、豪徳寺(東京都世田谷区)今戸(東京都台東区)など、複数の伝説が伝わっています。

どの説も「猫が人を招いた」「猫が服をもたらした」というモチーフで共通しているのが特徴です。
招き猫の歴史を語るとき、これらの伝説は欠かせないものとなっています。

招き猫の起源と発祥の説

招き猫の色とご利益一覧図(8色の意味と由来) 色ごとのご利益・風水・由来を整理。願いに合わせて色を選ぶ際の参考に。

豪徳寺の伝説|飼い猫が殿様を招いた

招き猫の発祥としてよく知られているのが、豪徳寺にまつわる伝説です。
江戸時代、彦根藩主の井伊直孝が鷹狩りの帰りに豪徳寺の前を通りかかりました。

そのとき、寺の飼い猫が手を上げて招くような仕草をしたといわれています。
直孝が猫に導かれて寺に入ると、たちまち雷雨が降り始めたため、難を逃れることができました。

その縁で直孝は豪徳寺を厚く庇護し、寺は繁栄したとされています。
猫の死後、住職が猫の姿をかたどった置物を作り、縁起物として広まった、というのが豪徳寺の説です。

豪徳寺は「招き猫発祥の地」として知られ、多くの招き猫が奉納されています。
境内には招き猫を奉納するスペースがあり、参拝者が願いを込めて招き猫を並べる光景が見られます。

(参照:豪徳寺

今戸焼と老婆の伝説|丸〆猫として広まった縁起物

もうひとつの代表的な説が、今戸にまつわる伝説です。招き猫の歴史を語る一次史料として名前が挙がる武江年表『藤岡屋日記』、どちらも嘉永5年(1852年)の記録ですが、伝える話の内容が少し異なっています。

『武江年表』には、こんな話が記されています。浅草花川戸に住む老婆が、貧しさゆえに愛猫をやむなく手放しました。するとその夜、夢枕に猫が現れ、「自分の姿を作り祀れば福徳自在となる」とお告げをしたといいます。老婆がその通りに今戸焼の土人形を作って売り出したところ評判を呼び、浅草寺三社権現(現・浅草神社の鳥居近くで大流行になった、と記されています。

一方、『藤岡屋日記』には少し異なる話が残されています。浅草寺梅園院の境内でひねり土人形を売って生計を立てていた老夫婦の愛猫が、知り合いの飼っていた小鳥をあやめてしまいました。罪の意識に耐えられなかった猫は、自ら井戸に身を投げます。その後、老婆の夢に猫が現れ、「今後はあなたを守り、いかなる病でも全快させる」と告げました。仲間の今戸焼屋が作った猫の人形を拝んだところ病がたちまち治ったと評判になり、浅草神社の鳥居辺りで売られるようになった、というのが藤岡屋日記の記述です。

語り口は違えど、どちらの話にも共通する部分があります。

猫が人のもとを離れ、夢の中に現れて「守り」を告げ、その姿をかたどった土人形が霊験をもたらす縁起物として広まるという流れです。単なる土産物ではなく、猫の霊が宿った縁起物として売られていったところに、招き猫という縁起物の始まりが見えてきます。

このように、今戸焼は江戸時代から続く焼き物の産地で、招き猫のルーツのひとつとされています。

(参照:国立公文書館

その他の説|自性院や伏見稲荷・金刀比羅宮との関わり

豪徳寺と今戸以外にも、招き猫の起源にまつわる伝説は各地に残されています。

東京都新宿区の自性院は「猫寺」とも呼ばれ、室町時代の武将・太田道灌と黒猫にまつわる伝説が残る場所です。また京都市左京区の檀王法林寺では、江戸時代中期ごろから右手を挙げた招き猫が授与されていたという記録が文献に残されています。

そのほかにも、伏見稲荷や金刀比羅宮との関わりが語られることもあります。詳しい史料は残っていませんが、複数の説が各地に並存していること自体、招き猫が日本の各地でそれぞれに愛されてきた証ともいえるでしょう。

なぜ『猫』が縁起物に選ばれたのか

招き猫の伝説を見ていくと、ひとつの疑問が浮かびます。なぜ犬でも馬でもなく、猫が縁起物として選ばれたのでしょうか。

犬は番犬として役割が明確です。しかし猫は、どこか捉えどころがなく、突然姿を消し、また戻ってくるというその来去が、人々の目には神秘的に映ったと言われています。

また、群馬の養蚕地帯では、ネズミから蚕を守る守り神として猫が祀られ、実物の猫がいなくても猫の絵(猫絵)だけで霊験があると信じられた地域もあります。

役割がはっきりしている犬とは違い、来るとも去るとも知れない猫の性質が、「人知の及ばない何か」を感じさせた。その神秘性こそが、猫を縁起物として選ばせた数ある理由のひとつと考えられています。

江戸時代の招き猫について

浮世絵や文献に残る招き猫の姿

招き猫が歴史の史料に初めて登場するのは、1852年(嘉永5年)のことです。

当時の江戸の出来事を記録した『藤岡屋日記』『武江年表』に、浅草神社の鳥居際で「丸〆猫」「招き猫」が売られていたという記述が残っています。

また同年、歌川広重の「浄るり町繁花の図」にも、招き猫の販売店(上の写真)が描かれています。この浮世絵は、当時の江戸で招き猫がすでに町に根づいた縁起物として売られていたことを視覚的に伝える貴重な資料です。

当時の招き猫は、土人形や張り子として作られていました。今戸焼や江戸近郊の窯で作られた招き猫が、町人の暮らしに浸透していったと考えられています。

江戸の商いと暮らしに根づいた縁起物

江戸の町では、店先に招き猫を据えてお客を招く習慣が広がっていきました。
商売繁盛や家内安全を願う縁起物として、庶民の暮らしに根づいていったのです。

江戸は商いが盛んな町でした。
店を構える人々が、招き猫に願いを込めて据えたことが、招き猫の歴史を形づくっていったといえます。

明治時代の広がりと産業化

常滑・瀬戸での量産と全国への普及

明治時代に入ると、愛知県の常滑や瀬戸で招き猫の製造が本格化しました。
窯業の技術を活かし、土人形や置物として量産されるようになったのです。

海路や鉄道の発達とともに、招き猫は全国へ運ばれていきました。
江戸時代は主に関東で親しまれていた招き猫が、明治以降は日本中で据えられるようになった、というのが招き猫の歴史の大きな転換点です。

土人形から招き猫へ、産地の技術が支えた

常滑は古くから土管や甕を生産する窯業の町でした。
瀬戸は釉薬を施した陶磁器の産地として発展してきました。

両産地とも、土人形や置物の製造技術を招き猫に活かしました。
多様な形や色の招き猫が生み出され、招き猫のバリエーションが広がっていったのです。

常滑焼と瀬戸焼、産地としての歴史

常滑焼の招き猫|お馴染みの形と産業の歴史

常滑焼の招き猫は、丸い大きな目、二頭身のずんぐりとしたフォルム、そしてツルッとした光沢のある質感が特徴的です。これは、昭和20年代に生まれた形になります。

窯業の町・常滑では、明治以降に土人形の製造が盛んになりました。
招き猫もその一翼を担い、産業としての製造と、職人による手作りの両面が、常滑の招き猫を支えてきたのです。

瀬戸焼の招き猫|釉薬の美しさと磁器の伝統

瀬戸焼の招き猫は、白い釉薬や彩色が施されたものが多いです。
瀬戸は「せともの」の語源となった窯業の町で、磁器の技術が招き猫にも活かされています。

常滑との違いは、釉薬の美しさと華やかな佇まいにあるといわれています。
白や金、多彩な色の招き猫が、瀬戸では作られてきました。

現代の招き猫

海外での「Maneki Neko」としての認知

招き猫は「Maneki Neko」として海外でも知られるようになりました。
日本食レストランやアジア雑貨店の店先で見かけることが多く、日本文化の象徴のひとつとして受け入れられています。

インバウンド需要の高まりとともに、本物の招き猫を求める声も増えています。
店先に据えられた猫が、江戸の町から世界へ広がるまでの道のりは、招き猫の歴史のひとつの到達点といえるでしょう。

窯元と職人が守り続ける招き猫の文化

現代でも、常滑・瀬戸・九谷などの産地で、窯元や職人が招き猫を作り続けています。
量産品だけでなく、手作りの招き猫には職人の想いが込められているのです。

招き猫の歴史は、産地と職人が紡いできた物語でもあります。
江戸の町から始まった招き猫が、今も窯元と職人の手によって受け継がれている、という事実は、招き猫の歴史を語るうえで欠かせません。

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招き猫研究所では、招き猫を『縁起物の雑学』ではなく、日本が育んできた文化として伝えていきたいと考えています。

色の意味や置き場所のハウツーだけでなく、窯元や産地、職人さんの想いが込められた招き猫の世界を、もっと多くの方に届けたい

そんな思いで、記事を書いています。

「招き猫って、こんなに歴史として深いんだ」と感じていただけたら、『招き猫の歴史・文化』の記事もご覧になってみてください。

まとめ

招き猫の歴史は、江戸時代に始まり、豪徳寺や今戸にまつわる伝説が残されています。
明治時代に常滑・瀬戸で量産が始まり、全国へ普及しました。

現代では海外でも「Maneki Neko」として親しまれ、窯元と職人が文化を守り続けています。
店先に据えられた猫が、世界に広がるまでの道のりは、招き猫の歴史そのものといえるでしょう。