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招き猫の歴史・文化

招き猫はどこで生まれたのか?発祥の地をめぐる三つの説と文化的な背景

招き猫の発祥地は、どこなのか。
実は、この問いに対してひとつの答えを示すことは、現在もできていません。
「浅草・今戸」「世田谷・豪徳寺」「新宿・自性院」という三つの説が、今もそれぞれの地に根を張っています。

なぜ、ひとつに絞れないのか。
それは招き猫が、特定の誰かが「発明した」ものではなく、江戸の暮らしや信仰の中から自然に生まれてきた縁起物だからです。
この記事では、三つの発祥説をそれぞれ丁寧に紐解きながら、招き猫が生まれた文化的な背景を探っていきます。

より詳しく知りたい方は『招き猫とは?意味・由来・種類から読み解く、日本が育んだ縁起物』もご覧ください…!

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招き猫の発祥とは何を指すのか

招き猫の歴史(1477年ー現代) 室町時代の伝説に始まり、江戸の史料、明治の瀬戸量産、昭和の常滑形を経て、現代は世界の『Maneki Neko』へ。

「発祥」という言葉は、「その文化・習慣・物事が最初に生まれた場所や時代」を指します。
招き猫の場合、「最初に作られた場所はどこか」「最初に信仰の対象となった場所はどこか」という二つの視点から語られることが多くなっています。

陶芸品としての招き猫が最初に作られた場所と、猫を縁起物として祀る信仰が生まれた場所は、必ずしも同じではありません。
三つの説は、それぞれ異なる角度から「招き猫の原点」を示しています。
どれが「正しい」かを争うのではなく、それぞれの説が何を伝えているかを理解することが、招き猫という縁起物を深く知ることにつながります。

今戸説 ── 浅草で生まれた素焼きの縁起物

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今戸焼と招き猫のかかわり

今戸は現在の東京都台東区に位置する地名で、隅田川沿いに広がっていた職人の町でした。
ここで江戸時代から作られていたのが「今戸焼(いまどやき)」と呼ばれる素焼きの陶器です。
瓦や土器から日用品、人形類まで幅広く作られていた今戸焼の品々の中に、招き猫も含まれていたと考えられています。

今戸焼の招き猫には、白地に赤と黒の彩色が施された、丸みのある素朴な形が特徴としてあります。
量産品ではなく職人の手仕事による作りで、浅草周辺の民衆の暮らしに根ざした縁起物として作られていました。
江戸の下町文化を背景に、商家や一般の家庭にも広がっていったものと見られています。

最古の記録と今戸神社

招き猫に関する文献の記録として、嘉永5年(1852年)ごろに浅草の絵師・歌川国芳の門下生が描いた錦絵に、今戸人形として招き猫が描かれているという資料があります。
この時期すでに浅草周辺に招き猫が存在していたことを示す、数少ない視覚的な記録のひとつとなっています。

今戸神社(台東区)は、現在「招き猫発祥の地」として広く知られています。
境内には多くの招き猫が奉納されており、縁結びと福を招く神社として多くの参拝者が訪れます。
今戸焼の陶芸の歴史と、江戸の下町に根ざした信仰の文化が、この地で交差していたといえるでしょう。

豪徳寺説 ── 武士と白猫の逸話から生まれた招福の象徴

井伊直孝と白猫の伝説

世田谷区にある豪徳寺(ごうとくじ)は、招き猫の発祥地として最もよく知られた場所のひとつです。
この寺には、江戸時代初期に起きたとされる一つの逸話が伝わっています。

彦根藩の二代藩主・井伊直孝(いい なおたか)が鷹狩りの帰り道に豪徳寺の前を通りかかりました。
そのとき、境内の門の前に一匹の白猫がいて、手を挙げて招くような仕草をしていました。
不思議に感じた直孝が立ち止まると、直後に激しい雷雨が降り始め、直前まで直孝が立っていた場所に落雷しました。
猫のおかげで命が救われたと感じた直孝は、豪徳寺をたいへん篤く信仰し、後に一族の菩提寺として整備したといわれています。

「招福猫児」として祀られた背景

この逸話を受けて、豪徳寺では猫を「招福猫児(まねきねこ)」として祀るようになりました。
白猫の像が多数奉納されるようになり、現在も境内には大小さまざまな招き猫の置物が並べられています。

豪徳寺の招き猫には、ひとつの際立った特徴があります。
一般的な招き猫は小判を持っているものが多いですが、豪徳寺の招き猫は手を挙げて招く仕草だけで、小判を持っていません。
「招く」という動作そのものに意味を見出した、素朴な原型に近い姿を保っているといわれています。

伝説の信憑性と文化的な意味

井伊直孝の逸話は、寺院の縁起として語り継がれてきたものであり、歴史的な記録として完全に裏付けられているわけではありません。
ただ、豪徳寺が江戸時代に彦根藩と深いつながりを持っていたことは史実として確認されています。
寺院が「猫に救われた」という信仰を語り継ぎ、招き猫として形に残していった経緯は、江戸の宗教文化と縁起物の関係を示す好例といえます。

自性院説 ── 猫寺に残る江戸の記憶

太田道灌と黒猫の縁起

東京都新宿区に位置する自性院(じしょういん)は、地元で「猫寺」と呼ばれてきた寺院です。
こちらにも、招き猫の起源に関わる伝説が伝わっています。

室町時代、江戸城を築いたことで知られる武将・太田道灌(おおた どうかん)が、武蔵野の野原で鷹狩りをしていたとき、深い霧の中で方角を見失ってしまいました。
そのとき一匹の黒猫が現れて、道灌を安全な場所まで誘導したといわれています。
道灌はその猫を「命の恩人」として手厚く葬り、「猫地蔵」として自性院に奉納したとされています。

招き猫の発祥としての位置づけ

自性院の伝説は、今戸説や豪徳寺説と比べると、「手を招く猫」の形とは少し異なる猫信仰の話です。
そのため、招き猫の発祥として今戸・豪徳寺と並んで語られることはありながらも、直接的な発祥地としての根拠は弱いとする見方もあります。
ただ、「猫が人を助け、その猫を祀る」という信仰の形が、招き猫という文化を下支えするひとつの流れを形成したことは確かです。

江戸から明治にかけての東京には、猫を縁起物として大切にする文化が複数の場所で並行して育まれていました。
自性院はその文化の一端を今に伝える場所として、招き猫の歴史を語る上で無視できない存在となっています。

なぜ発祥の地が複数あるのか ── 民間文化の性質として

記録されなかった縁起物の誕生

招き猫の発祥をめぐる三つの説が今も共存しているのは、江戸時代の民間文化が「記録される文化」ではなかったからです。
公式な文書や歴史書に残るのは、政治や宗教の中心的な出来事がほとんどでした。
商家や一般市民の暮らしの中で生まれ、使われていた縁起物の起源が詳細に記録されることは、ほとんどありませんでした。

招き猫は「誰かが特許を持った発明品」ではありません。
陶工が作り、商人が店先に置き、寺社が信仰の形として祀る。
そのような積み重ねの中から、自然に形と意味が育まれてきた縁起物です。
だからこそ、発祥の地をひとつに絞ることは、招き猫の本質とはそもそもかみ合わない問いかもしれません。

江戸の商人文化と猫への親しみ

江戸時代の商家では、ネズミが食料や商品を荒らすことへの対策として猫が飼われていました。
猫は実用的な存在でありながら、家を守る縁起物としての性格も帯びていきました。
「客を招く」という仕草と猫の愛らしい姿が結びついたのは、そのような背景の中でのことです。

また、猫は神社や寺院とも縁が深く、境内で大切にされることも多くありました。
豪徳寺や自性院のような信仰の場でも、猫は特別な意味を持つ存在として扱われていました。
商いと信仰、二つの文脈が重なる場所で招き猫という形が生まれたことは、偶然ではないといえるでしょう。

明治以降の大量生産と全国への普及

明治時代に入ると、常滑(とこなめ)や瀬戸(せと)といった陶磁器の産地で招き猫が大量に生産されるようになりました。
それまで地域ごとに異なる形で存在していた「手を招く猫の置物」が、全国共通の縁起物として流通し始めたのがこの時期です。
金色の小判を持ち、右手を挙げる白猫という現在よく見られる形も、この量産化の過程で定着していきました。

今戸・豪徳寺・自性院のいずれもが「発祥の地」として語り継がれているのは、それぞれの場所で招き猫の文化が確かに育まれてきたことの証でもあります。
全国に広まる前の時代に、それぞれの地域で「招く猫」という文化の芽が独自に育っていたのだと考えると、三つの説の存在は矛盾ではなく、日本文化の豊かさを示しているといえます。

日本初の招き猫専門メディア『招き猫研究所』

招き猫研究所では、招き猫を『縁起物の雑学』ではなく、日本が育んできた文化として伝えていきたいと考えています。
歴史や由来、窯元や産地が育んできた招き猫の世界を、もっと多くの方に届けたい。

そんな思いで、記事を書いています。
「招き猫って、もっと深いんだ」と感じていただけたら、『招き猫の歴史・文化』の記事もご覧になってみてください。

まとめ

招き猫の発祥地として語られる三つの説を、あらためて整理します。

どれかひとつが「真実の発祥地」と断言できる資料は、現在も存在しません。
それは招き猫が、特定の誰かの発明ではなく、江戸の暮らしと信仰の中から自然に育まれてきた縁起物だからです。
三つの地がそれぞれに「招き猫の原点」を持ちながら、明治以降に全国へと広まっていった。
その経緯を知ることが、招き猫という文化をより深く理解することにつながるのではないでしょうか。