この記事でわかること
- 由来は一つではなく、寺社の縁起と物・絵の記録が重なる
- 名と姿がそろう記録は、嘉永5年の丸〆猫ブーム
- 発祥の説は豪徳寺・自性院・今戸などで、どれも伝承が中心
- 赤い首輪や手招きにも、浮世絵や故事の背景がある
招き猫の由来は、ひとつの寺や人物に決まっているわけではありません。寺社の縁起、今戸の土人形、浮世絵や辞典の記録が重なり合い、いまの招き猫の姿ができあがりました。
手招きする猫の置物は、いつ、どこで、なぜ生まれたのでしょうか。由来を「伝承」と「記録」に分けてたどると、目の前の一体が背負ってきた江戸の暮らしが見えてきます。
辞典や博物館、寺社、図書館のレファレンス記録など、出典をたどれる資料だけで整理しました。発祥の地や伝説、通史の詳しい話は個別の記事に譲り、この記事は由来の根拠に絞っています。
招き猫の由来とは
招き猫の由来は、伝承と記録の二つの層から成り立っています。寺社や土地の縁起は「なぜ猫が福を招くのか」を語り、土人形や浮世絵は「いつ、どんな姿で売られたか」を伝えてきました。
由来をたどる三つの手がかり
- 寺社の縁起:豪徳寺・自性院などに、猫が人を招いた話が伝わる
- 物と絵の記録:嘉永5年(1852年)の丸〆猫ブームが記録に残る
- 言い伝え:猫が顔を洗うと客が来るという故事が、手招きに重なる
由来を考える三つの手がかり
招き猫の由来を確かめる材料は、寺社の縁起・物と絵の記録・言い伝えの三つに分けられます。どれか一つで起源が決まるわけではないため、それぞれが何を示す資料なのかを区別して読む必要があります。
招き猫の由来をたどる手がかり
| 手がかり | 残っているもの | 代表例 | 示していること |
|---|---|---|---|
| 寺社の縁起 | 寺の言い伝え、地名辞典の記述 | 豪徳寺、自性院 | 猫が人を招き、福や縁をもたらしたという物語 |
| 物と絵の記録 | 土人形、浮世絵 | 今戸焼の丸〆猫、歌川広重の錦絵 | 招き猫が江戸で売られていた時期と姿 |
| 言い伝え | 辞典に載る故事 | 猫が顔を洗うと客が来るという話 | 手招きの形と客商売の結びつき |
寺社の縁起は、招き猫に込められた願いの物語を伝えるものです。ただし、いつ誰が最初に置物を作ったかを示す記録にはなっていません。
これに対して丸〆猫や浮世絵は、売られていた時期と姿を示す手がかりになります。つまり、物語と記録を組み合わせて読むことで、招き猫の由来の輪郭がはっきりするのです。
ほかの縁起物と比べると、この点は招き猫の大きな特徴でしょう。縁起だるまは、群馬の少林山達磨寺が、江戸時代の飢饉の際に住職が木型を彫って作り方を伝えたことを始まりとしています。
一方で招き猫には、作り手と始まりの年をはっきり示す記録が見つかっていません。そのため招き猫の由来は、複数の物語と記録を重ねて読むほかないのです。
「招き猫」の名が記録に現れた時期
「招き猫」という呼び名と手を挙げた姿が、そろって記録に残るのは嘉永5年(1852年)です。この年の江戸では、今戸焼の土人形「丸〆猫(まるしめねこ)」が評判を呼びました。
京都文化博物館の「いつだって猫展」の解説によると、招き猫の起源は諸説あって判然としません。片手を挙げた猫の人形が、いつ現れたかを示す資料がないためです。
そのなかで、名称と姿の両方が当時の記録に残るのが嘉永の丸〆猫だと、同展は説明しています。静岡市美術館での同展の案内も、丸〆猫を招き猫の先祖と位置づけました。
ただし、このブームは4〜5年ほどで落ち着いたようです。それでも招き猫は作られ続け、全国各地で姿を変えながら広まっていきました。
寺社の縁起に残る招き猫の発祥
招き猫の発祥を伝える寺社は複数あり、どれも猫が人を招いて福や縁をもたらした話を伝えています。寺の縁起は信仰の物語であり、史実を証明する記録とは性格が異なる点に気をつけましょう。
発祥とされる寺社と伝わる話
| 寺社 | 場所 | 伝わる話 | 話の時代 | 確かめられる資料 |
|---|---|---|---|---|
| 豪徳寺 | 東京都世田谷区 | 門前の猫が井伊直孝を招き、雷雨を避けさせた | 江戸時代初め | 寺の縁起、地名辞典、伝説事典 |
| 自性院 | 東京都新宿区 | 黒猫が太田道灌を手招きし、寺へ導いた | 室町時代 | 区の文化観光資源案内 |
| 今戸神社 | 東京都台東区 | 今戸焼の地で猫の焼き物を売っていた | 江戸時代 | 区の観光サイト |
| 檀王法林寺 | 京都府京都市 | 主夜神(しゅやじん)の使いとされる黒猫の招き猫を授けてきた | 江戸時代中頃 | 寺の公式サイト、博物館の展覧会解説 |
豪徳寺の縁起と井伊直孝
豪徳寺の縁起は、門前の猫に招かれた井伊直孝が雷雨を避けた話です。寺は直孝の支援を受けて、寛永10年(1633年)に再興しました。寺ではこの猫を招福猫児(まねきねこ)として祀り、のちに招福殿も建てられました。
この逸話の出どころを、豊中市立図書館がレファレンス事例として調べました。『日本歴史地名大系13』という地名辞典では、直孝が大檀那となり、寺が井伊家の江戸菩提寺になったとされます。
同じ項には、門前で直孝を招き入れた招き猫の伝説も書かれていました。
さらに『日本伝奇伝説大事典』は、『荏原郡誌』を引いて猫塚の由来を記しています。寺が栄えるきっかけをくれた猫に感謝し、住職が猫塚を建てたという内容です。
世界大百科事典も、この故事にちなむ招き猫のお札が出され、境内に猫塚がまつられたと説明しました。
つまり豪徳寺説は、寺の縁起・地名辞典・伝説事典の三方向から跡をたどれる説です。一方で人物事典の『国史大辞典』には逸話の記載がないため、史実というより寺に伝わる話として読むのが確かでしょう。
招福猫児の授かり方や奉納の考え方、境内のどこに猫がいるのかは、豪徳寺の記事で紹介しています。
自性院の猫地蔵と太田道灌
自性院には、太田道灌を黒猫が導いたという話が伝わります。新宿区の文化観光資源案内によると、舞台は文明9年(1477年)の江古田・沼袋の戦いです。このとき道灌をこの地へ導いて救った黒猫を祀ったのが、秘仏の「猫地蔵」とされています。
太田道灌の顕彰サイトも、戦いのさなかに現れた黒猫が手招きし、ついていくと自性院の地蔵堂があったという話を載せています。新宿観光振興協会は、猫地蔵を安置する自性院を「ねこ寺」として紹介しました。
豪徳寺が江戸時代初めの話であるのに対し、自性院の話は室町時代の合戦を舞台にしています。ただし、この伝承は猫地蔵の由来であり、手を挙げた置物が自性院で作られたことを示すものではありません。
そのため自性院説は、猫が人を招くという発想が古くから寺に伝わっていた例として読むとよいでしょう。
新宿区の案内では、猫地蔵の御開帳は節分会の2月3日です(2026年10月時点)。日程は変わることもあるため、参拝前に寺の公式サイトで確かめましょう。
出典:新宿区「温故知しん!じゅく散歩 新宿文化観光資源案内」自性院
出典:太田道灌「猫地蔵」
出典:新宿観光振興協会「自性院 私年号板碑」
今戸神社と檀王法林寺
今戸神社は、今戸焼と結びついて招き猫発祥の地の一つとされています。台東区の観光サイトによると、この地は今戸焼の発祥の地です。猫の焼き物が売られていた土地であることから、招き猫発祥の地の一つにも数えられています。
京都文化博物館の展覧会解説は、豪徳寺説と自性院説に加えて、京都の檀王法林寺説も挙げました。
檀王法林寺は、夜を守る神・主夜神(しゅやじん)をまつり、その使いを黒猫としてきた寺です。寺の公式サイトによると、江戸時代の中頃から、主夜神尊の銘を刻んだ右手挙げの黒い招福猫が作られてきました。
どの説にも、猫が福を招き、災いを除くと信じられた点が共通しています。一方で、片手を挙げた猫の人形がいつ現れたかは、どの説からもはっきりしないと同展は述べています。
だからこそ、発祥を一つに絞らず、それぞれの根拠を見比べることが大切です。
発祥の地が一つに定まらない理由や、説ごとの成り立ちは、発祥の地の記事で掘り下げています。
浮世絵と文献に残る招き猫
浮世絵や辞典には、江戸の人々が招き猫を買い求めた様子が残されています。寺社の縁起が物語であるのに対し、こちらは招き猫が実際にどう売られ、どう描かれたかを伝える記録です。
浮世絵と文献からわかること
- 歌川広重の「浄るり町繁花の図」に、丸〆猫が描かれた
- 天保12〜13年には、歌川国芳の戯画を中心に猫ブームが起きた
- 浮世絵の猫の赤い首輪が、招き猫の首輪につながるという見方がある
歌川広重が描いた丸〆猫
歌川広重の「浄るり町繁花の図」(嘉永5年・1852年)には、丸〆猫を売る店先が描かれています。静岡市美術館の「いつだって猫展」の案内は、この作品を丸〆猫ブームの紹介とあわせて取り上げました。
朝日新聞のペット情報サイト「sippo」も、同じ年に広重が描いた作品に丸〆猫が登場すると伝えています。丸〆猫は、背中側の円の中に「〆」の字を入れた今戸人形です。
あわせて同記事によれば、日本招猫倶楽部は丸〆猫を、置物としての招き猫のルーツとみています。「〆」の印には、円満や、お金や福をひとりじめする願いが込められたとされます。
デジタル大辞泉プラスも、丸〆猫を日本各地の招き猫の中で最も古い作例としました。つまり浮世絵は、丸〆猫が江戸で売り物として出回っていた証拠といえるでしょう。
丸〆猫を生んだ今戸焼が、隅田川のほとりでどう育ってきたのかは、今戸焼の記事にまとめました。
天保の猫ブームと歌川国芳
丸〆猫の評判より少し前の天保12〜13年(1841〜42年)、江戸では猫を題材にした浮世絵が流行していました。京都文化博物館の展覧会解説によると、その中心にいたのが、愛猫家の浮世絵師・歌川国芳です。
国芳は、役者を猫に見立てたり、猫を人のように描いたりした戯画を次々に発表しました。美術手帖も同展の紹介で、天保12〜13年の猫ブームを担ったのが国芳の戯画だと伝えています。
浮世絵研究者の大久保範子氏は、浮世絵を大量に刷られ、庶民が手に取れたマスメディアと位置づけています。版画に描かれた猫の姿は、江戸の多くの人の目に触れていたのです。
国芳の猫ブームから丸〆猫の評判までは、およそ10年の間があります。つまり、ふたつの流行は江戸の町で猫が親しい題材だったことを示す記録といえるでしょう。
赤い首輪に残る唐猫の記憶
招き猫の赤い首輪にも、浮世絵を通して受け継がれた由来があるという見方があります。大久保範子氏は、平安時代の貴族が紐でつないで飼っていた唐猫(からねこ:中国渡来の猫)に、その起点を見ています。
大久保氏によると、『源氏物語』の本文に紐の色は書かれていません。それでも、鎌倉時代以降に描かれた源氏物語の絵では、唐猫の紐がほぼ赤く描かれてきたといいます。
江戸時代になると、源氏物語を題材にした絵が数多く描かれ、猫に赤い首輪を描く約束ごとが広まりました。国芳の作品でも、室内で飼われる猫にはほぼ赤い首輪がついていると大久保氏は話しています。
あわせて江戸では、赤は疱瘡(ほうそう:天然痘)除けの色として縁起物に多く使われました。つまり赤い首輪は、絵の約束ごとと、赤を縁起の色とする感覚が重なった姿と読めます。
大久保氏が語る浮世絵と江戸の縁起物の話は、インタビュー記事に全文を掲載しました。首輪や鈴、前掛けの由来は、もう一つの記事で整理しています。
辞典が伝える金猫銀猫の説
辞典には、浮世絵とは別の起こりを伝える説も載っています。日本大百科全書は、両国の「金猫銀猫」という店を起こりとする説を紹介しています。
天明年間(1781〜89年)に両国の遊女屋「金猫銀猫」が、金銀に彩った招き猫を店頭に飾ったという内容です。同書はさらに、のちに今戸で土製の招き猫が多く作られ、今戸焼の代表格になったと続けています。
ただし、この説を載せる資料はほかに見つかっておらず、研究所では一つの説として紹介するにとどめます。一方で、今戸で土製の招き猫が作られたという点は、丸〆猫の記録とも重なるものです。
辞典と博物館の記録を並べると、招き猫は江戸の店先と土人形の産地から広まったという大筋は共通しています。
手招きのしぐさと猫が選ばれた背景
招き猫が猫の姿で手招きをしているのは、客を呼ぶ言い伝えと、暮らしの中での猫の役割が重なったためです。由来に関わる要点に絞り、詳しい背景は関連する記事で紹介します。
民俗学者の飯倉義之氏は研究所の取材で、家猫は仏教とともに日本に入り、経典をネズミから守るために寺で飼われたと説明しています。そのうえで「福を守るっていういい面が、イメージされるわけですよね。」と語りました。猫が福を招く姿に選ばれた背景には、渡来のときからあったこの「福」の顔もあったといえます。
本物の猫が招き猫のようなポーズをする理由は、獣医師の資料をもとに次の記事でまとめています。
猫が顔を洗うと客が来るという故事
手招きの形は、前足で顔をなでる猫のしぐさを、客の訪れと結びつける言い伝えとともに語られてきました。世界大百科事典(旧版)は、猫の像を店先に置く習わしは江戸時代からで、この中国の故事に由来するという説を紹介しています。
同じ項目によれば、関東ではこの話が豪徳寺の猫の報恩談として語られてきました。つまり手招きの形には、中国の故事と日本の寺の縁起という、出どころの違う二つの話が重ねられています。
あわせて猫は、ネズミを退治する働き手として、人の暮らしを支えてきた動物でした。日本大百科全書によれば、関東の張り子の招き猫は、蚕を害するネズミを追い払う意味で農家に買い求められたといいます。
だからこそ招き猫は、商家では客を、農家では蚕の無事を願う縁起物として受け入れられたのでしょう。猫が縁起物になった理由や、手招きにまつわる伝説は、それぞれ別の記事で詳しく扱っています。
豪徳寺・自性院・今戸の説から中国の故事、研究者の見方まで、招き猫の起源に関わる12の説を「示していること」と「読むときの注意」に分けて一覧にした資料が、招き猫研究所 資料室の「招き猫の起源 諸説一覧」です。
江戸の招き猫からいまの姿へ
由来をたどると、招き猫は江戸の土人形から明治以降のやきものへと、作り手と姿を変えてきたことがわかります。記録に残る主な出来事を年表に並べました。
工芸史研究者の畑中英二氏は、研究所の取材に「始まりは物語、言の葉ですね、言葉。」と語っています。畑中氏によると、豪徳寺の話のような物語が絵になるまでに100〜150年かかり、その後に土人形として立体になりました。年表の出来事も、物語から絵、絵から立体へと姿を変えてきた流れの中に置くと読みやすくなります。
記録に残る招き猫の歩み
招き猫の由来に関わる出来事を年代順に並べると、伝承の時代と、物として記録に残る時代が分かれて見えてきます。
記録に残る招き猫の歩み
| 年代 | 出来事 | 資料の種類 |
|---|---|---|
| 文明9年(1477年) | 自性院に、太田道灌を導いた黒猫の話が伝わる | 区の文化観光資源案内(伝承) |
| 寛永10年(1633年) | 豪徳寺が井伊直孝の支援で再興し、のちに招福猫児を祀る | 寺の縁起、地名辞典 |
| 天明年間(1781〜89年) | 両国の「金猫銀猫」の店頭を起こりとする説 | 日本大百科全書(1出典) |
| 天保12〜13年(1841〜42年) | 歌川国芳の戯画を中心に、江戸で猫ブームが起きる | 博物館の展覧会解説、美術メディア |
| 嘉永5年(1852年) | 今戸焼の丸〆猫が評判を呼び、広重の錦絵に描かれる | 博物館の展覧会解説、報道 |
| 明治30年代 | 瀬戸で磁器の招き猫の量産が始まる | 愛知県公式観光サイト |
| 昭和20年代 | 常滑で二頭身の招き猫が生まれ、全国へ広まる | 常滑市観光協会、報道 |
江戸の招き猫は、今戸の土人形や関東の張り子など、土地ごとの素材で作られていました。明治30年代に入ると、愛知県の瀬戸が磁器による招き猫の量産に乗り出します。
一方で、いま多くの人が思い浮かべる丸い二頭身の姿は、京都文化博物館の解説によれば昭和20〜30年代頃に登場しました。つまり、見慣れた招き猫の姿は、由来の物語よりずっと新しいのです。
江戸から海外へ広がるまでの通史は歴史の記事で、瀬戸と常滑が二大産地になった流れは愛知の記事で整理しています。
江戸の土人形から始まった招き猫は、いまも瀬戸の窯で作り続けられています。由来を知ったうえで迎えるなら、どんな一体があるのかも気になるところでしょう。
その一つが「Luxen Maneki」で、株式会社日本招き猫総合研究所(招き猫研究所の運営会社)が手がけるブランドです。瀬戸焼の伝統窯で、職人が金彩を一体ずつ手で描いて仕上げています。
ここに挙げた出来事を含め、寺社の伝承と当時の記録を区別しながら31の出来事を年代順に整理した資料が、招き猫研究所 資料室の「招き猫年表」です。
よくある質問
Q. 招き猫はどこの国で生まれた縁起物ですか?
A. 日本で生まれた縁起物です。江戸時代の浅草周辺で今戸焼の丸〆猫が売られた記録が残り、豪徳寺や自性院など日本各地の寺社にも由来の話が伝わります。手招きの形に中国の故事が重ねられたという説はありますが、置物としての招き猫は日本の土人形から広まりました。
Q. 招き猫の日はいつですか?
A. 9月29日です。「来る福(くるふく)」と読める語呂から平成7年(1995年)に制定された記念日で、日本記念日協会の認定も受けています。毎年この前後には、伊勢のおかげ横丁や瀬戸市でも招き猫の祭りが催されてきました。開催日は年ごとに異なるので、主催者の案内を確かめましょう。
Q. 豪徳寺の招き猫が小判を持っていないのはなぜですか?
A. 寺の教えによるものです。招福猫児がもたらすのは人との縁であり、福そのものではないと豪徳寺は伝えています。縁を生かせるかどうかはその人次第だと、寺は説いています。感謝の心があれば福は自然に訪れるという教えから、小判を持たない姿になりました。
招き猫研究所がつくる招き猫「Luxen Maneki」
招き猫の由来は、寺の縁起と江戸の土人形、浮世絵の記録が重なって形づくられてきました。由来を知るほど、手元に置く一体の作り手や作り方にもこだわりたくなるのではないでしょうか。
「Luxen Maneki」は研究所がつくる招き猫で、伝統窯の職人が一体ずつ金彩を手描きした瀬戸焼です。量産の招き猫との違いは、受注生産で、注文から完成まで約4〜6週間をかける点です。
お届けの際は特製の桐箱に納めます。湿気を吸ったり吐いたりし、燃えにくい性質から、桐は昔、金庫の内箱にも使われた木です。
まとめ
招き猫の由来は、寺社の縁起と、土人形や浮世絵の記録の二つの層から読み解けます。豪徳寺や自性院、今戸神社などに発祥の話が伝わりますが、どれも伝承が中心で、定説はありません。
「招き猫」の名と手を挙げた姿がそろって記録に残るのは、嘉永5年(1852年)の丸〆猫ブームです。赤い首輪や手招きのしぐさにも、浮世絵の約束ごとや故事が重なってきました。
実物の由来を確かめたいなら、豪徳寺や今戸焼の記事を手がかりに寺社や産地を訪ねてみましょう。迎える一体を選ぶときは、その姿がどこから来たのかを思い浮かべると、招き猫との付き合い方が深まるはずです。











