この記事でわかること
- 今戸焼は、隅田川沿いの今戸で焼かれた素焼きのやきもの
- 丸〆猫は、嘉永5年に江戸で評判を呼んだ今戸焼の招き猫
- 今戸人形は戦中に途絶え、いまは古い姿を再現する作り手がいる
- 今戸神社の公式サイトに、招き猫の授与品と値段の記載はない
今戸焼の招き猫は、東京・浅草に近い今戸で焼かれた素焼きの土人形です。中でも「丸〆猫(まるしめねこ)」は、招き猫の名前と姿がそろって記録に残る、もっとも古い例の一つとされています。
浅草を歩いて今戸焼の名前を知り、いまも作られているのか、どこで見られるのかが気になった人もいるでしょう。今戸焼の成り立ちと現在の作り手を知ると、江戸の招き猫がぐっと身近になります。
この記事では、辞典や博物館の資料、台東区と北区の公式情報、今戸神社の公式サイトをもとにまとめました。神社の授与品と値段についても、公式に確認できた範囲で紹介します。
今戸焼の招き猫とは
今戸焼の招き猫は、土を素焼きにして色を塗った、江戸の土人形です。瀬戸や常滑の焼き物の招き猫とは、素材も作り方も異なるのが特徴でしょう。
今戸焼の招き猫の要点
- 今戸焼は、台東区今戸で天正年間に始まったと伝わるやきもの
- 器や瓦のかたわら、今戸人形と呼ばれる小さな土人形を作った
- 丸〆猫は今戸人形の一つで、招き猫の古い作例とされる
素焼きの土人形として生まれた今戸焼
今戸焼は、台東区今戸で焼かれてきた素焼き中心のやきものです。北区の紹介によると、かつては隅田川や荒川の流域で盛んに焼かれていました。辞典は、その始まりを天正年間(1573〜1592年)と伝えています。
今戸焼の概要
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 場所 | 東京都台東区今戸 |
| 始まり | 天正年間(1573〜1592年)と伝わる |
| 焼き方 | 釉薬をかけない素焼きが中心 |
| 主な製品 | 日用の器、瓦、人形などの玩具 |
| 人形 | 今戸人形。キツネやタヌキ、猫、福助など小さな人形が多い |
日本大百科全書によると、今戸人形は江戸の町づくりに必要な瓦を焼くかたわらで作られ始めました。京都の伏見人形の影響を受け、群青と朱を中心に彩る小ぶりな人形として育ったといいます。
工芸史研究者の畑中英二氏は研究所の取材で、江戸時代後期に登場した招き猫や狸の置物について「素焼きで焼いて、絵の具で描くんですよ。」と語っています。釉薬をかけずに焼き、あとから色を塗る作り方は、今戸焼の招き猫の特徴そのものです。
しかも安く、しゃれた味わいがあったため、江戸っ子に広く親しまれました。つまり今戸焼の招き猫は、器や瓦を焼く窯が生んだ、庶民の手に届く人形だったのです。
日本招猫倶楽部は、招き猫が江戸時代の江戸で、福を招く縁起物として生まれたと紹介しています。今戸人形には福助もあり、同じ窯から縁起物の人形が生まれていたことがうかがえます。
全国の産地で招き猫がどう作られてきたかは、産地の記事で一覧にしました。
土人形のほか、木目込み人形・博多人形・張子の招き猫は、人形の招き猫の記事で比べています。
瀬戸・常滑の招き猫との違い
今戸焼の招き猫は、瀬戸の磁器や常滑の陶器より前に生まれた土の招き猫です。三つの産地を並べると、素材と時代の違いがはっきりします。
今戸焼・瀬戸焼・常滑焼の招き猫の違い
| 項目 | 今戸焼 | 瀬戸焼 | 常滑焼 |
|---|---|---|---|
| 素材 | 素焼きの土人形 | 磁器 | 陶器 |
| 主な時代 | 江戸時代後期に評判を呼ぶ | 明治30年代に量産が始まる | 昭和20年代に今の形が生まれる |
| 代表的な姿 | 丸〆猫 | 生きた猫に近い細身の姿 | 小判を抱えた二頭身 |
一方で、招き猫の素材は今戸の土から瀬戸の磁器へと変わりました。だからこそ、今戸は素朴な土の味わい、瀬戸は白く細やかな肌へと分かれていったのでしょう。
瀬戸焼の招き猫については、瀬戸焼の記事で詳しく紹介しました。
丸〆猫と招き猫の始まり
今戸焼の名を広めたのが、嘉永5年(1852年)に江戸で評判を呼んだ丸〆猫です。今戸が招き猫の発祥の地の一つとされる理由も、この土人形にあります。
嘉永5年に評判を呼んだ丸〆猫
丸〆猫は、背中側に丸で囲んだ「〆」の印をつけた今戸焼の招き猫です。京都文化博物館によれば、名前と手を挙げた姿の両方が当時の記録に見られる招き猫があります。それが嘉永5年(1852年)の丸〆猫です。
静岡市美術館の案内によると、丸〆猫は近くの浅草寺の境内で売られていたようです。ただし、この評判は4〜5年ほどで落ち着いたと、同館は伝えています。
あわせて、同じ年に歌川広重が描いた「浄るり町繁花の図」にも、丸〆猫が登場しました。北区の紹介ページも、丸〆猫を招き猫の元祖ともいわれる土人形と記しています。
デジタル大辞泉プラスは、丸〆猫を各地の招き猫の中でもっとも古い作例としました。評判は数年で落ち着いたものの、その後も招き猫は作られ続け、各地で姿を変えていったのです。
丸〆猫を含む招き猫の由来の諸説は、由来の記事で整理しました。
今戸を発祥の地とする説
今戸を招き猫の発祥の地とする説は、今戸焼の産地で猫の焼き物が売られていた歴史にもとづいています。台東区の観光サイトは、今戸神社の一帯を16世紀から続く今戸焼の発祥の地と紹介しています。
そのうえで区は、猫の焼き物が売られた土地だったことを理由に、招き猫発祥の地の一つにも挙げているのです。愛知県の観光サイトは、浅草の老婆が夢の中の猫に告げられて土焼きの置物を作り、良いことが続いたという話も紹介しています。
もっとも、発祥については豪徳寺説や自性院説などもあり、京都文化博物館は起源を判然としないと説明しています。今戸神社の公式サイトにも、招き猫の由来に触れた記述は見当たりませんでした(2026年10月確認)。
今戸の説は、寺社の縁起よりも焼き物の産地としての歴史から語られてきたといえます。ほかの発祥の地や伝説との違いは、それぞれの記事で比べました。
丸〆猫が評判を呼んだ嘉永5年の前後に、招き猫をめぐってどんな出来事があったのかは、招き猫研究所 資料室の「招き猫年表」で年代順にたどれます。
今戸焼と今戸人形の現在
今戸人形は、戦争をはさんで一度途絶え、いまは古い姿を研究して再現する作り手が技を伝えています。博物館の収蔵品と、区が紹介する作り手から、その歩みをたどります。
戦中に途絶えた今戸人形と残された型
今戸人形の生産は、太平洋戦争のさなかに途絶えました。デジタル大辞泉プラスによると、戦後になって愛好家が復元を試みています。明治時代に地中へ埋められた型なども、その人形づくりに生かされてきました。
途絶える前の姿を伝える資料の一つが、江戸東京博物館の収蔵品です。同館は、今戸焼の職人・金沢春吉が作った丸〆猫を、大正から昭和初期の品として公開しています。
つまり今戸の土人形の型は、江戸から明治、大正を経て、昭和のはじめまで作り継がれていたことになります。北区の紹介ページにも、戦争の前まで受け継がれた姿を伝えたいという作り手の思いが記されていました。
一方で、型が残っていても、土や絵具、焼き方まで当時に近づけるのは簡単ではありません。古い型と資料を手がかりに、失われた手順を組み立て直す作業が、今戸人形の今を支えています。
江戸から現代までの招き猫の歩みは、歴史の記事にまとめました。
北区が紹介する古型今戸人形の作り手
東京都北区は、区の伝統工芸の一つとして古型今戸人形の吉田義和さんを紹介しています。江戸から明治にかけての今戸人形を、昔ながらの姿で再現する作り手です。
区の紹介によると、吉田さんは当時の人形や書物、発掘された出土品を調べ、昔の作り方を研究してきました。土は隅田川と荒川の流域から採って精製し、人形を焼いていると区は紹介しています。
絵付けの材料も、膠(にかわ)・胡粉(ごふん)・泥絵具という昔と同じ組み合わせです。胡粉は、カキの殻を砕いて作る日本画の白い顔料です。
区のページには、日本民芸館展で日本民芸協会賞を受けた作品も紹介されています。工房の見学は、北区の紹介ページによると事前の連絡が必要です。
丸〆猫も、吉田さんの作品の一つとして区のページに写真が載っています。江戸の招き猫の素材と色を、資料から確かめて再び形にする仕事といえるでしょう。
江戸の土人形を再現する作り手がいる一方で、各地の窯では、いまの暮らしに合う招き猫も生まれています。では現代の産地の窯からは、どんな一体が届けられているのでしょうか。
答えの一つに「Luxen Maneki」があります。招き猫研究所と同じ日本招き猫総合研究所が運営するブランドで、扱うのは瀬戸焼の招き猫です。金彩を入れるのは、伝統窯の職人の筆にほかなりません。
今戸神社を訪ねる前に
今戸神社を訪ねるなら、授与品や値段は公式の案内と社務所で確かめるのが確実です。以下の案内は、2026年10月2日に神社の公式サイトと台東区の観光サイトで確かめた情報にもとづいています。
招き猫の授与品と値段の確かめ方
今戸神社の公式サイトには、招き猫の授与品と、その値段の記載がありませんでした(2026年10月確認)。公式に値段が載っているのは、ご祈祷料や縁結びのお守りなどに限られています。
一方で台東区の観光サイトは、縁を招き寄せるペアの猫をかたどった絵馬や御朱印帳が人気だと紹介しています。猫の授与品を目当てにする人は、この案内を手がかりにするとよいでしょう。
ただし、授与品の種類や初穂料は変わることがあります。そのため値段を知りたいときは、社務所の受付時間の9時〜16時に、神社へ直接尋ねるのが確かな方法です。
なお、御朱印は書き置きのみの扱いだと公式サイトに書かれていました。招き猫の置物そのものを探す場合は、授与品と販売品を分けて考えておきましょう。
参拝の前に確かめたい案内
今戸神社は、浅草駅から歩いて15分ほどの隅田川沿いにあります。公式サイトの案内を表にまとめました。
今戸神社の案内(2026年10月時点)
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 所在地 | 東京都台東区今戸1-5-22 |
| 社務の受付 | 9時〜16時(年中無休) |
| 交通 | 各線浅草駅から徒歩15分。都営バスや台東区の北めぐりんも利用できる |
| 設備 | 駐車場とお手洗いはない |
| 御祭神 | 應神天皇、伊弉諾尊、伊弉冉尊、福禄寿 |
今戸神社は浅草名所七福神の一つで、福禄寿をまつる神社でもあります。なお駐車場やお手洗いがないため、近くの施設を確かめてから出かけると安心です。
東京の招き猫の寺社と、全国の招き猫ゆかりの寺社は、それぞれ別の記事で紹介しています。
よくある質問
Q. 今戸人形は販売していますか?
A. 作り手によって扱いが異なります。北区が紹介する古型今戸人形の作り手は、工房の見学に事前の連絡が必要です。販売の有無や方法は、それぞれの作り手の案内で確かめてください。古い今戸人形の姿は、江戸東京博物館がウェブで公開している収蔵品の画像からも確かめられます。
Q. 今戸焼と今戸人形の違いは何ですか?
A. 今戸焼は、今戸で焼かれた器や瓦、人形などのやきもの全体を指す言葉です。そのうち人形を今戸人形と呼びます。丸〆猫は、今戸人形の一つにあたる招き猫です。
Q. 丸〆猫の「〆」にはどんな意味がありますか?
A. 朝日新聞の「sippo」は、背中側の円に「〆」を入れた印について説明しています。円満の願いや、お金や福をひとりじめしたいという願いを表したものだそうです。日本招猫倶楽部は、この丸〆猫が置物の招き猫の源流だと考えています。
招き猫研究所がつくる招き猫「Luxen Maneki」
今戸焼の丸〆猫をたどると、招き猫がいつの時代も、その土地の土と職人の手で形づくられてきたと気づかされます。けれども、いまの暮らしに迎えるなら、作り手と作り方が見える一体を選びたいと考える人も多いのではないでしょうか。
研究所が手がける「Luxen Maneki」は、六古窯に数えられる瀬戸焼の招き猫です。伝統窯の職人が手描きで金彩を入れ、注文ごとに一点ずつ製作するため、約4〜6週間でお届けしています。
お届けの箱は、特製の桐箱です。桐は湿気を吸い、また吐き出す木です。燃えにくい性質もあり、昔は金庫の内箱の材にもなりました。
まとめ
今戸焼の招き猫は、隅田川沿いの今戸で焼かれた素焼きの土人形です。嘉永5年(1852年)に評判を呼んだ丸〆猫は、招き猫の名前と姿がそろって記録に残る古い例とされています。
今戸人形は戦中に途絶えましたが、いまは古い型や資料をもとに再現する作り手がいます。今戸神社では、招き猫の授与品と値段を公式サイトで確認できないため、社務所で尋ねましょう。
江戸の招き猫に触れたいなら、博物館の資料や区が紹介する作り手の仕事から見てみてください。土の手ざわりと素朴な色に目を向けると、今の招き猫との違いも楽しめるはずです。










